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ベッドに横たわった圭子の身体は、細く、抱きしめれば折れてしまいそうだと翔弥は思った。彼はその白い肌を見下ろして、ごくりと唾を飲み込んだ。
「翔弥くん」
「え?」いきなり名前で呼ばれた翔弥は、戸惑ったように目をしばたたかせた。
「ベッドでは私、貴男のことを『翔弥』って呼ぶから、貴男も私のことを『圭子』って呼んでくれる?」
「で、できないよ、そんな……」
「がんばってよ。ムードだそうよ」圭子は仰向けになったまま両手を翔弥に向けて差し出した。翔弥はゆっくりと圭子と身体を重ね合わせた。「がんばります。圭子さん」
「もう……」圭子は軽く翔弥を睨んで、すぐに唇を合わせてきた。圭子の腕が翔弥の背中に回された。翔弥はシーツに手をついて、体重をかけないようにしながら圭子の口を吸った。合わせられた圭子の身体は異様に熱く火照っていた。翔弥はいつしか貪るように彼女の口を吸い、舌を絡ませた。そして首筋、鎖骨を経て、舌を乳房に到達させると、大きく口を開いてその乳首を捉えた。
圭子は身体を仰け反らせて喘ぎ始めた。そしてその細い腕を伸ばし、翔弥の熱く、固くなっているものに指を触れさせた。バーで感じた冷たい手とは別人のように、その指も熱くなっていることに翔弥は気づいた。
翔弥はベッドの上で膝立ちになった。圭子は起き上がり、躊躇わずに翔弥のものを口に含んだ。そして長い時間をかけて舌と唇でその怒張したものを慈しんだ。
「あ、け、圭子……」
圭子は口を離して上目遣いで言った。「そう。その調子。いいよ、翔弥」
翔弥は圭子を再び仰向けにして、彼女の秘部に唇を這わせた。小さな蕾を舌先で刺激し、谷間に沿ってゆっくりと口を動かした。
圭子はまた喘ぎ始めた。「も、もう来て、翔弥。あたしの……中に……」
翔弥は腕を突っ張ったままゆっくりと圭子の中に入っていった。苦しそうな顔で呻きながら、圭子は胸を大きく上下させた。
翔弥は腰を前後に動かし始めた。
次第に荒くなる圭子の息。
翔弥の首筋を伝う汗。
「んっ、んっ、……」翔弥の動きが大きく、激しくなっていった。圭子の白い乳房にたくさんの汗が宝石のように輝いている。
「も、もう……」圭子が喉から絞り出すような声を上げた。「イ、イっちゃうっ!」
「け、圭子、圭子っ!」翔弥がひときわ大声で叫び、身体を硬直させた。
突然、翔弥の目の前に真っ白な光が弾けた。同時に彼の身体の奥から一気に沸き上がった熱い固まりが圭子の身体の奥深くで炸裂した。
翔弥はゆっくりと圭子の身体に覆い被さった。圭子はまだ肩で大きく息をしている。
「圭子さん……」
「またそんな呼び方……」圭子は笑いながら翔弥の頭を撫で回した。「ありがとう。狩野くん。私、とっても満ち足りた。これで思い残すことは、もう……ない」
「なにそれ。思い残すこと、なんて」
「ごめんね。無理させちゃって」
「無理?」
「奥さんに対して、秘密が一つ、増えちゃって、隠し通す努力を強いられる。でしょ?」
「そういうリスク覚悟で君を抱いたんだ。心配しなくてもいいよ」
「わあ、狩野くんに『君』って呼ばれちゃった」圭子は嬉しそうに笑った。「恋人同士みたい!」
「恋人になる?」翔弥も微笑みながら言った。
「何だかずいぶん大胆なこと、言うようになったね、翔弥くん。もっと早くにそうなっとけばよかったのに」
翔弥は圭子の身体に腕を回した。「あ!」圭子は焦ったように小さく叫んだ。
圭子の背中はひどく冷たくなっていた。翔弥は驚いて圭子の目を見つめた。「寒い? 身体、こんなに冷たくなってる……」
「ううん。大丈夫。私、冷え性なんだ。ごめんね、抱いても心地よくないよね。私の身体」
翔弥は片隅に押しやられていた布団を圭子の身体に掛けた。そして自分もそれに潜り込んでまたゆっくりと圭子の身体を抱きしめた。
「私にのめり込んじゃだめ。狩野くん」圭子が静かに言った。「言ったでしょ、今夜だけだって」
「もう会えない?」
「たぶん……」
「そう……」
翔弥は圭子の身体を抱いたまま、しばらく言葉を発することができないでいた。心なしか圭子の背中の冷たさは、次第に肩や胸の辺りまで広がっていっているような気がした。
「君が小学生の時に短冊に書いた『真っ白なキャンバスに描いてみたい』っていう、言葉。僕は忘れていない」
「ほんとに? よく覚えてるね」
「好きだったから。貴女が」
「うん。『貴女』……。その距離に戻ろう。私のこと、もう『君』なんて呼ばないでね」
圭子がどうしてそんなことを言うのか、翔弥には理解できなかった。
「私、まだあの夢、実現させてない。っていうか、実現できなかった」
「どうして? 絵の勉強、ずっと続けてたんでしょ?」
「うん。目標は100号のキャンバスに思いっきり描くこと」
「100号! そりゃすごい! でも、もう十分そのくらいの腕はあるんじゃないの?」
「絵の勉強してるとね、もっと上達してから、まだまだ技術が足りない、ってどこまでも欲が出てきて、先延ばししちゃうんだ。狩野くんだってそうじゃないの?」
「僕はもう長いこと絵からは遠ざかってるからね。でもわからないでもない。その気持ち」
「自分が自分に満足できたら、ってずっとそのまま」
「描いてみなよ。だめだって思ったらまた描けばいいじゃん」
「何かね……。私の拘りっていうか……」
「そうなんだ……」翔弥は目を閉じた。
圭子の息は、穏やかさを取り戻していた。
「圭子さんは、どうして僕を誘ったりしたの?」
「……」
「っていうか、どうして急に僕を思い出したりしたの?」
「記憶……」
「記憶?」
「私はずっと独身だった。でも、別に好きな人がいなかったわけじゃないし、つき合った人も何人かいた」
翔弥は圭子の目を見つめてうなずいた。
「あのね、私、貴男に抱かれていながら、今さらこんなこと言うのも変なんだけど、」
「うん」
「私、自分の人生の中で、特別貴男に対して熱烈な恋心を抱いていたわけじゃない」
「……」
「今も、昔も、貴男が一番好き、っていうわけじゃなかった」
「……答になってないよ」
「そうだね。でもね、私、ただ身体を満足させて欲しくて貴男を誘ったわけじゃないの」
「そう……なの」
「貴男はどう? 私の身体で気持ち良くなるためだけに、ここに来たの?」
「そ、そんなことはない! 僕は貴女のことを、ずっと忘れてはいなかった」翔弥は圭子を抱いた手をほどいて、彼女の頬を包んだ。「あの頃の貴女への想いは、ずっと心の奥に残ってた」
圭子は安心したようにため息をついた。「知ってる」そして静かに目を閉じた。「貴男のその記憶が、私をここに連れてきた」
「記憶……」
「貴男の中にその記憶が残っていることが、私を苦しめてたんだ……」
「え? 苦しめてた?」
「ごめんね、そんなこと言うと、貴男を追い詰めることになっちゃうね。そうじゃなくて、私、貴男のその記憶に抱かれたかった……」
「記憶に……抱かれる……」
翔弥は圭子の口にした言葉の意味が何となくわかるような気がした。たった今圭子を抱いたのは、おそらく、目の前の圭子に燃え上がったからではない。昔の彼女への自分の想いがそうさせたのだ。
「三年も私を想い続けてくれた狩野くんを、好きになりたかった……」
「僕は、今の貴女に何をしてあげられたんだろう……」
「翔弥くん、貴男が今、そんなこと考える必要はないよ。私、もう、十分。すっかり透明になった」
「透明に……なった?」
「白いキャンバスに描きたいことは、もう……残ってない。ありがとう。狩野くん」
翔弥は再び圭子の身体を抱いた。空気のようにふわりと柔らかく、しかし雪のように冷たかった。
「明日の朝、送っていくよ。家まで」
「大丈夫。一人で大丈夫。ちゃんと行けるから」
「君の家も知っておきたいし……」
「だめ。教えない。言ったでしょ? 今夜だけだって。何度も言わせないの」圭子は寂しそうに笑った。
「……そうだね」
翔弥の胸に頬を寄せ、圭子は上目遣いで小さく言った。「私、狩野くんに抱かれて眠りたい。いい?」
「もちろんだよ」
圭子はすぐに寝息を立て始めた。やがて翔弥も深い眠りに落ちていった。