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不意に目を覚ました翔弥は、ホテルの大きなベッドに一人で横になっていた。
「えっ?」
翔弥は身体を起こした。枕元に封筒が置いてあった。表書きに『宿泊代』とあの年賀状の宛名と同じ字体で書かれていた。壁の時計を見た。針は七時半を指していた。
「圭子さん?」翔弥は辺りを見回した。ベッドから降りて、バスルームを覗き、また言った。「圭子さん」
圭子はもうその部屋にはいなかった。翔弥の指先に、まだあの背中の冷たさが残っている気がした。
「そうだ」翔弥はケータイを取り出し、昨日の着信履歴の番号に電話をかけた。三回半ほどの呼び出しの後、通話が繋がった。
『はい?』
圭子の声ではなかった。
「あ、あの、圭……安達さん……ですか?」
『安達? 違います。たぶん、人違いです』相手はいらいらしたように言って通話が一方的に切られた。
「ど、どういうことだ?」
翔弥は中学時代の友人に電話をかけてみた。その友人とは、ずっと会っていなかったが、年末に街角で久しぶりに会って、何とはなしに番号を登録していたのだった。
「鈴木……だよな?」
『ああ、狩野か。どうしたんだ? 連絡早いな。マメなやつ』
「鈴木、訊きたいことがあって……」
『何だよ』
「安達圭子、って知ってるだろ? 中学んときお前と同じクラスだった」
『安達? ああ。もちろん』
「彼女のケータイの番号、知ってたら教えてくれないかな」
『はあ?』鈴木は呆れたように大声を出した。『何言ってんの? お前』
「え?」
『そうか、お前知らなかったのか……』
「何を?」
『安達、去年の12月に亡くなったんだぜ』
「な、なんだって?!」
『お前には連絡いかなかったんだな……。突然、くも膜下出血だったらしい』
「じょ、冗談やめろよ……」翔弥は力なく言った。
『こんなこと冗談で言えるか。そうそう、お前も絵の勉強してたからわかるだろうが、俺たち、初七日であいつの家、訪ねたら、でっかいフスマみたいなキャンバスが祭壇の横に置いてあってさ』
「キャ、キャンバス?」
『あいつの兄ちゃん、言ってた。これに思い切り描くのが圭子の夢だったって』
「夢……だった……」
『真っ白いままだった……。あいつ、夢、果たせずに逝っちまったよ……』
その後の鈴木との電話での会話は、翔弥には記憶がない。
翔弥はホテルの黒いフィルムが全面に貼られた自動ドアの前に立った。そのドアが開いたとたん、出し抜けに広がった白い世界に彼は思わず目を閉じた。
翔弥はもう一度ゆっくりと目を開けた。「夜の間に降ったのか……」
そこは白い空間に変わっていた。
広がった青空の下、彼はとぼとぼと家路についた。車が走る道路はすでに雪も解けて、黒く濡れたアスファルトが朝日を反射して輝いた。陽は差しているが寒い朝だった。彼は思わず襟を立てて首を縮めた。
小学校の近くの公園入り口で、彼は立ち止まった。
その公園には誰もいなかった。
翔弥はそこに足を踏み入れた。夜の間に降り積もった、誰にも穢されていない真っ白な雪の地面が一面に広がっていた。彼はそこに一歩ずつ、ゆっくりと自分の足跡を残していった。
翔弥はベンチに積もった雪を払いのけて腰を下ろした。ベンチはひどく冷たかった。
彼はそのベンチに残った雪に両手をそっと押しつけた。ふわりとした感触でも、手のひらが痺れてしまうほどに冷たかった。
翔弥はそのままじっとしていた。喉元に大きく熱い塊が上がってきた。彼は苦しくなって、口を大きく開き、焦って息をした。刺すような冷たい空気が肺の中に流れ込んだ。
翔弥はよろめきながら立ち上がった。そしてそこにたたずんだまま、真っ白な雪の中を公園入り口から続く自分の足跡を目でたどった。彼が今立っている足下に目を向けたとたん、涙が堰を切ったように溢れ始めた。それはどうしようもなく溢れ続けた。
「圭子、どうして僕に……、会いに来たんだ……」翔弥は震える声で小さく口にした。
翔弥はずっとうつむいて肩を震わせていた。涙がぽたぽたと地面に落ちて、彼の足下の雪をドット模様に解かしていく。解けた雪の下の茶色に枯れた芝の中に、控えめな薄いピンク色をした小さな小さな花が咲いているのが見えた。翔弥は思わず顔を上げ、眩しく輝いている空を仰いだ。
眩しすぎて、彼はもう目を開けていられなかった。
――the End
2013,1,13脱稿(2014,1,31改訂)
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――あとがき
2012年の年の瀬、ふとしたことで呼ばれた同級生の忘年会で、小学校から高校まで同じ学校に通っていたユウジから、ケイコがくも膜下出血で亡くなったことを聞かされました。
ショックでした。
ケイコは初恋の人で、僕は小五の時から中学二年生まで彼女を想い続けていたからです。結局かなわぬ恋でしたが、当時の切ない想いを忘れることはありませんでした。中学卒業と共に他県に引っ越して僕とは違う高校に進学してからは会うこともなく、お互い別の場所でそれぞれの人生を歩んでいました。
彼女に関することはもちろんいろいろと思い出すことができますが、どうしても忘れることができないのが、あの言葉です。小学校で同じクラスだった時に、それぞれの夢を書いたものが教室の後ろの壁に並べて貼られていました。自分で何を書いたか、なんてことはとっくに忘れてしまっているくせに、ケイコが、その整った字で「大きなキャンバスに描いてみたい」と書いていた短冊は今でも目に焼き付いています。
――大きなキャンバスに描きたい
僕には意味がよく分かりませんでした。「キャンバス」というものが何なのか、ということが分かってからも、この言葉を書いたケイコの思いがどうしても見えないのです。
(何を描きたいんだろう?)
それが何かを確かめることができないまま、彼女は先に行ってしまいました……。
もしかしたら、彼女もそれをずっと見つけようとしていたのかもしれません。
涼やかな瞳をした、笑顔の美しい少女でした。
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