Chocolate Time 雨の物語集 ~雨に濡れる不器用な男たちのラブストーリー~

『雨が雪に変わる夜に』 (1.過去2.初仕事3.同窓会4.来客5.疑心暗鬼6.好敵手7.失踪8.再び9.雪の夜

《8.再び》

 

 亜紀は大きなプラタナスの木の下に佇んでいた。葉を落としてしまっているその木の枝から、ぽたぽたと亜紀の身体に冷たい雫が降りかかった。ぞくぞくとした寒気が背筋を走り抜けた。彼女は思わず木の下に置かれた真新しい木製のベンチに座り込み、背を丸めてうずくまった。

 

「亜紀!」

 

 鋭い叫び声が間近で聞こえた。それは、今、その瞬間に亜紀が待ち望んでいた声だった。

 

「亜紀!」遼はもう一度叫んだ。そして彼女の前にやってくると、腰を屈めて、その女性の肩を抱きかかえた。

 

 遼に腕を取られてよろよろと立ち上がった亜紀は、そのずぶ濡れの若い警察官を見上げ、叫んだ。「遼っ!」

 

 ばしっ!

 

 亜紀は右手で遼の左頬を力任せに殴った後、彼の身体を力一杯抱きしめ、夢中で唇を遼のそれに押し当てた。

 遼も亜紀の濡れて氷のように冷たくなった身体を固く抱きしめ、彼女の頭を自分に押しつけながら、激しく唇を重ね合わせた。

 

 遼がかぶっていた帽子が地面に落ちた。

 

 冷たい雨に混じって、凍えた心を溶かすような温かな雫が、亜紀の頬にも、遼の頬にも伝って幾筋も流れ落ちていった。

 

 口を離した亜紀は、遼を睨み付けて言った。「ばかじゃないの? びしょ濡れじゃない!」

 

「君だって!」

 

 

 店の後かたづけをしていたケネスは、ふと窓から外の駐車場に目をやった。その一画を見たケネスは、レジの傍らにいた妻マユミに慌てたように言った。「マーユ、バスタブにお湯、張ってあるか?」

「うん。もう一杯になってる頃だと思うよ、ケニー」

「そうか」

 ケネスはすぐに入り口から外へ走り出た。そして表のプラタナスの木の下で抱き合っている二人に声を掛けた。

「そこのお二人さん!」

 遼と亜紀は振り向いた。

「アツアツなんは結構なことなんやけどな、そのままラブシーンやってたら間違いなく風邪ひくわ。早う中に」

 

 

 遼と亜紀を店の中に連れ込んだケネスは、マユミに早口で言った。「この二人をバスルームにたたき込んだって」

「わかった。こっちよ遼君」

 ケネスは続けて菓子作りのアトリエに向かって大声を出した。「健太郎! おまえの服、用意したって。スウェットか何かあるやろ。真雪にも声掛けてな」

 奥から返事が聞こえた。「わかったよ、父さん」

 

 マユミに促され、店の奥に続く通路を歩きながら、遼は夏輝に電話をした。

「日向巡査、家出人薄野亜紀さんを確保しました。北原さんにも伝えて下さい。今一緒に『シンチョコ』に居ます」

「『確保』って何よ……」亜紀が恥ずかしげに言った。「せめて『保護』って言って欲しいな」

「ほんとだよ」先を歩いていたマユミは笑った。

 

 

 亜紀と遼は、マユミに案内されてシンプソン家の広いバスルームに入っていった。

「先に入りなよ」遼が躊躇いがちに言った。

「う、うん……」亜紀は小さく返事をして遼に背を向け、ずぶ濡れになったスーツを脱ぎ、ブラウスのボタンを一つずつ外した。遼も彼女に背を向け、赤い顔をして、濡れて固く締まったネクタイを手こずりながらやっとほどき終わると、制服のボタンに手を掛けた。

 バスマットの上に置かれた脱衣籠には、亜紀の濡れた服が軽くたたまれて入っていた。遼は、それを見下ろして安心したようにほっとため息をついた。

 

 遼が浴室のドアを開けた時、立ちこめた湯気の奥に亜紀の白い肌が見えた。遼はごくりと唾を飲み込み、浴室に足を踏み入れ、後ろ手にドアを閉めた。

 亜紀はシャワーを浴びていた。弾ける水音が妙に心地よく遼の耳をくすぐった。

 

「身体、冷えてるだろ? 早くお湯に浸かりなよ」遼が言った。

「え?」亜紀は顔を振り向かせた。「何? よく聞こえなかった」

 遼は亜紀に近づき、恐る恐る背中から腕を回して、耳元で囁くように言った。「早く温まりなよ、って言ったんだよ」

 亜紀は顔を上気させてコクンとうなずくと、身体を遼に向けた。そして無言のまま再び彼の唇を求めた。遼もそれに応え、亜紀の口を柔らかく慈しんだ。

 

 二人の身体にシャワーの湯が弾け、浴室にはさらに濃い湯気が充満した。

 

 

 リビングの大きな座卓に向かって、マユミと一人の女性警察官が座ってホットチョコレートのカップを手にしていた。

「あ、」遼はタオルで頭を拭きながら思わず立ち止まった。「日向巡査、来てたんですね」

 その女性警察官はにこにこ笑いながら小さく頭を下げた。

「ようやくハッピーエンド。ですね? 秋月巡査長」

 

 遼は照れたようにタオル越しに頭を掻いた。

 

 バスルームから遅れて出てきた亜紀は、ケネス夫婦の娘、真雪から借りたクリーム色のスウェットを着ていた。

「あ……」亜紀はテーブルの女性警察官に目をやった途端、その場に立ちすくんだ。

 先に座っていた遼が声を掛けた。「ここにおいでよ、亜紀」

「う、うん」

 亜紀は恥ずかしげに胸を手で押さえながら遼の横にちょこんと座った。

「紹介するよ、この人は僕の後輩、新人警察官の日向夏輝巡査」

「よろしくお願いします」

 夏輝は丁寧に頭を下げた。

「こっちが、僕の、えーっと……」遼は顔を赤らめて、少し声を落として言った。「ぼ、僕のフィアンセ、薄野亜紀」

「えっ?」亜紀はびっくりして顔を上げた。「フィ、フィアンセ?」

 

 遼は亜紀の顔を覗き込んだ。「だめかな……」

 亜紀の目に涙が浮かんだ。「遼……」

 

 広いリビングの、二階への階段下に設けられているキッチンスペースから、店の主ケネスが二つのカップを運んできて、遼と亜紀の前に置いた。

「飲んだって。特製のホットチョコレートやで」

「ありがとうございます」震える声で亜紀が言った。

「人前で泣くなよ、みっともないだろ」遼は小声で囁いた。

 

 ケネスが言った。「ナッキーも、今回はよう働いたな。立派な警察官になっとるやないか」

「おっちゃん、本気で言ってる?」

「なんやねん。たまにはわいの言うことも素直に受け取って喜んだらどやねん」

 ケネスは笑いながら妻マユミの横に座った。

 

 亜紀が上目遣いでちらりと自分のことを見たのに気づいた夏輝は、微笑みながら言った。「亜紀さん、あたし秋月さんにはとってもお世話になったんです。あ、今もですけど」

「そ、そうですか……」

 

「でも、それだけですよ」

「『それだけ』?」ケネスが言った。「何やの、その妙な言い方」

「誤解されたら困るな、って思って」

「誤解?」

「だって、あたし新人研修中は秋月さんが実習指導員だったから、二人でいることが多くて、今も結構誤解されること、あるんだ」

「そうなんか?」

「うん。まあ、お似合いって思われるのは悪い気はしないけどね」

 

 秋月は無言でまた頭を掻いた。

 

「でも、本当にご心配なく、亜紀さん」

「もしかして疑ってらしたの? 亜紀さん」マユミが言った。

 亜紀は小さな声で言った。「ちょ、ちょっとだけ……」

「心配いらんわ、亜紀さん」ケネスが大きな声で言った。「ナッキーにはすでに高校時分からなんべんもくっつき合った彼氏がおる

「おっちゃん!」夏輝が赤い顔をして叫んだ。「くっつき合ったなんて言わなくていいのっ!」

「もう、ラブラブなんやで」

「そうなんですね」亜紀はようやく微笑んだ。


 夏輝が悪戯っぽい目で言った。「でも、誤解ついでにばらしちゃいますけど、あたし、秋月さんを誘惑したことがあるんです」

「えっ?」マユミもケネスも眉間に皺を寄せて夏輝を見た。

 

「去年の夏、あたし、実習中にその彼氏の修平とずっと会えなくて寂しい思いをしてたことがあって、恥ずかしい話なんですけど、いつも優しく接してくれる秋月さんにふらふらとよろめいちゃって……」

「それほんまか? ナッキー」

「初耳だわね」

「うん。でね、あたしが落ち込んでるのを見て、秋月さん、食事に誘ってくれたから、脈有りだと思っちゃって、お酒飲んだ勢いで秋月さんに『あたしを抱いて』オーラを出してたんです」

「何やの、その『あたしを抱いて』オーラって」ケネスがあきれ顔をした。

「身体を癒されたかった、って感じかな。今思えば、かなりやばい状態だったよ」

「ほんまかいな……」

 

 秋月は恐縮したようにカップを口に当てていた。

 

「でもね、秋月さんは偉かった。そんなあたしの誘惑にもめげず、何もせずにあたしをタクシーで寮まで帰してくれたんだよ」

「へえ!」

「すごい紳士じゃない?」マユミは感心して言った。

 

「あの、」亜紀が躊躇いがちに口を開いた。「夏輝さんって、すっごくはつらつとしていらっしゃって、とってもチャーミングな方ですよね。美人だし、キュートだし」

「え?」夏輝は意表を突かれたように首をかしげた。

「男の人だったら、そんな夏輝さんに甘えられたら、絶対、あの、言い方は悪いですけど、手を出しちゃうと思います。」

「な、何が言いたいんだよ、亜紀」遼が横から口をとがらせて亜紀を見た。

 亜紀も遼の顔を見た。「どうして応えてあげなかったのかな、って……。そんな時、男の人ならハグか内緒でキスぐらいしてあげたくなるんじゃない?」

「いや、ないない。そんなことできるわけないだろ」秋月は赤くなってまたカップを取り上げた。

「亜紀さんの言う通りやな。こんな娘に言い寄られたら、わいやったら絶対その場で最後までいってまうわ」

「ケニー」マユミがケネスを睨み付け、彼の太股をぎゅっとつねった。

「ouch!」

 

 夏輝が笑いながら言った。「あたしがそんなに魅力的かどうかは別として、秋月さんは、あたしの手を五秒間だけ握って癒してくれたんです」

「五秒間?」

「そう、五秒間」夏輝は笑いながら目の前のカップを手に取った。「それから、その店を出て、タクシーを待っている時、秋月さんはあたしの肩を軽く叩いて、何て仰ったと思います?」

 

 秋月は頭をぼりぼりと掻いて赤くなっていた。

 

「『僕にはできないよ』か何かか?」ケネスが目を輝かせて言った。

「残念でした。実はね、秋月さん、『彼の手を離しちゃだめですよ』って言って下さったんです」

「ほんとに?」マユミが嬉しそうに言った。

「あたし、修平っていう彼氏がいること、秋月さんに一度も話したことなんかなかったのに、ですよ?」

「大したもんやな……」ケネスは腕組みをして感心したように大きくうなずいた。「ほんまの紳士やな」

「それであたし目が覚めたんです。秋月さんでなければ、たぶん不倫しちゃって、修平との仲も、今頃どうなっていたかわからない……」夏輝はしんみりしたように言った。

 

 亜紀は隣に座った遼を誇らしげに見つめていた。

 

「なんでわかっちゃたんですか? 秋月さん。あたしが彼氏持ちだったってこと」

「いや……何となく」遼はしきりに恐縮して頭を掻いた。

「あたし、それから、それまで以上に秋月巡査長を尊敬するようになりました」

「ほんま、珍しわな。目の前のこんなかいらし娘にも手ぇ出さんと」ケネスがコーヒーカップを口に運んだ。「わいやったら、彼氏持ちだろうが何だろうが、遠慮なく手ぇ出すけどな」

「ケニー!」

「ouch!」

 

「僕が単に臆病者だった、ってだけですよ……」

 ケネスがマユミにつねられた太股をさすりながら言った。「いや、ちゃうやろ。遼君は正真正銘の紳士や、っちゅうこっちゃ。おまけに、すでにそん時も亜紀さんのことが頭にあったんちゃうか?」

「きっとそうよね」マユミも言った。

 

「あ、」亜紀が不意に小さく叫んだ。「タクちゃんに電話しなきゃ!」

 そう言いながら亜紀は濡れたバッグの中から自分のケータイを取り出した。

「タクちゃんって、亜紀のアパートに居た人?」遼が訊いた。

「うん。きっと心配してる」

 夏輝がすかさず言った。「北原さんは、今、たぶん、電車の中だと思います」

「え?」亜紀の指が止まった。

「先ほど北原さんにご連絡差し上げた時、仰ってました。自分はもうここに居る理由もないし、こっちでの用事も全部済んでるから、お二人が帰られる前に退散する、って」

「そ、そうなんだ……」亜紀は独り言のように呟いた。

「きっと自分は邪魔になるからって」夏輝は笑った。「素敵な従姉妹さんですね」

 

「お、」ケネスが窓の外に目をやった。「雪に変わったで」

 そこにいた残りの四人も、一様に外を見た。

 

 音もなく、無数の白い水鳥の羽毛のような雪が、戸外の景色を埋め尽くし始めていた。

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