Chocolate Time 雨の物語集 ~雨に濡れる不器用な男たちのラブストーリー~
《9.雪の夜》
タクシーがコーポ『スカーレット』の前で止まった。
「ありがとうございました」遼が言って、運転手に代金を支払った。「雪道の運転、気をつけられて下さい」
「こりゃどうも」その運転手は振り向いたまま恐縮したように小さく頭を下げた。
亜紀と遼は、そのタクシーのテールライトが角を曲がってしまうのを見届けると、肩を抱き合って二階への階段をゆっくりと上った。
部屋のドアの前で、亜紀は遼に向かって言った。「あたし、遼と離れている間に、少しずつ二人の間に何かが積もっていってる気がしてた」
「積もる?」
「思い出とか、あなたの優しさの記憶とかを、まるで雪が隠していくみたいに少しずつ」
遼はうつむいた亜紀の肩を抱いた。「中に入ろう。寒いだろ」
亜紀は部屋のドアを開けて遼を促したが、彼は微笑みながら手を取り、亜紀を先に中に通した。
亜紀に続いて部屋に入った所で、遼は思わず立ち止まった。「あれ、何? この荷物……」
暖房のリモコンを操作し終わった亜紀は振り向き、遼の手を取って言った。「あたし、もう遼とは完全に終わった、って思って、実家に帰るつもりだったの」
「終わった……って」遼は哀しそうな顔をした。
亜紀は遼の手を引いて、自分のベッドに座らせ、自分もその横に身を寄せて座った。「温かくなるまで、くっついてて、遼」
遼は黙って亜紀の身体を抱き寄せた。
「あたしね」亜紀が目を閉じて静かに話し始めた。「会社の社長にリストラ宣告されたの」
「リ、リストラ? ほんとに?」
「うん。それで本当は行くつもりじゃなかった同窓会にも行ったの。気晴らしに」
「そうか……」
「でも、そこで省悟くんに口説かれて、」亜紀の言葉が一瞬途切れ、彼女はさらに小さな声で続けた。「一緒にホテルに行っちゃった……」
「知ってる」遼も小さな声で言った。
亜紀は意外そうな顔で、遼の目を見た。そしてひどく申し訳なさそうに眉尻を下げ、うつむいた。
「あたし、その時のこと覚えてなかったんだけど、数日後に省悟くんから電話があってね、あたしに何度も謝るの」
「省悟が?」
「そう。それからぼんやり記憶が甦ってきて、とんでもないことしちゃった、って。それに遼のことが忘れられないのに、他の男の人について行ったことが、あたし、自分でどうしても許せなかった」亜紀の声は震えていた。
「でも、何もなかったんだろ? 省悟と君との間に」
「あなたが後輩の夏輝さんに甘えられても、きっぱり、でも優しく彼女を立ち直らせたのに、あたしは、省悟くんについて行った……」
遼は亜紀の肩に手を回して優しく抱き寄せた。「君は酔ってたんだろ? その時」
亜紀は黙ってうなずいた。
「それに、」遼はおかしそうに言った。「君はホテルで省悟にビンタしたり突き飛ばしたりしたらしいじゃない。省悟から聞いた時はほっとするのと同時にすっごく笑えたよ」
「うん。あたしもそれを思い出したら、省悟くんにとってもひどいことした、って後悔して、いっぱい謝ったよ。でも省悟くん、気にすんな、って笑ってた」
「省悟も紳士だった、ってことだよ」
「そうだね……」
「僕はね、同窓会に遅れて行って、真也達から君が彼と一緒に出て行った、って聞かされた時、胸が爆発しそうになって、そこを飛び出したんだ。」
「そうだったの……」
「でも、何もできなかった。君に電話するのも怖くてできなかった……」
「ごめんなさい……」
「亜紀が謝ることないよ。だって、君はフリーだったんだから、僕が君や省悟を責めることなんかできないよ」
「もっと素直になってれば良かった……あたし」
「僕もさ。君のこと、大好きで離したくない、って思ってたのに、何もアクションを起こせずに、省悟や北原さんにまで嫉妬して、心の中でのたうち回ってたからね」
「え? タクちゃんに? どうして?」
「君と北原さんが『シンチョコ』で語り合ってるの、見てさ、てっきり男の人かって思ったんだ」
亜紀はくすっと笑った。「確かにタクちゃんは、遠目では男に見えるね」
「だからさ、君にはとっても申し訳ないけど、一時は省悟とその金髪男と二股掛けしてるのか、って憤ってた。」
「ほんとにごめんね、遼。かき乱されてたんだね、心が……」
「それくらい、君のことがもう、僕の心から溢れるほどになってたんだ」遼は亜紀の頬を両手で包み込んで優しくキスをした。
「でも、君も僕と日向さんとのことを怪しんでたんだろ?」
「うん。あたしも『シンチョコ』でのあなた達を偶然見ちゃって……。それがこの荷造りの直接の原因かも」
「あの時はね、彼女、僕を慰めてくれたんだ。恩返しだ、って言ってさ」
「恩返し?」
「そう、恩返し。僕が去年の夏に、彼女を慰めてあげたことへの。僕は全然そんなつもりはなかったんだけどね」
「いい人だね、日向さんって」
「あの子、やっと二十歳になったばかりなのに、僕にチョコレートを勧めながら、元気出して、って言ってくれたんだ。僕が嫉妬してるのも、疑心暗鬼だ、って」
「素敵な部下だね」
「あの子は……」声のトーンを落として、遼は話し始めた。「自分が生まれた日に、お父さんを事故で亡くしてるんだ」
「えっ? ほんとに?」
遼は静かにうなずいた。
「だから彼女は生まれてからずっとお母さんと二人暮らし。決して豊かな生活をしてきたわけじゃない。そして物心つく頃には、自分は警察官になるって決めていたんだ」
「そう……偉いね……」
「だからあの子は人を癒してくれる力を本能的に持っている、そんな気がする。迷子になった子どもや、交番にやってくるお年寄りへの対応なんか、もうベテラン警察官以上に素晴らしいんだ」遼は恥ずかしげに笑った。「僕なんか足下にも及ばない」
「だから、あなたも話す気になったんだね、彼女に」
「うん、そう。なんか、あの子には、心の中までさらけ出したくなる。話を聞いてもらっていると、気持ちがどんどん楽になっていくんだ」
「いい警察官になれそうだね」
「うん。間違いないね」
「いい部下を持ったね、遼」
「去年は僕があの子の実習指導員だったけど、まさか、逆に慰められるなんて思わなかったよ」遼は照れたように笑った。そして雨に濡れたバッグからシンチョコのアソートチョコレートの箱を取り出した。「お土産にいただいたんだ」
その時、湿ってくしゃくしゃになったライトグリーンのハンカチが床に落ちた。
「あ!」遼は小さく叫んで、それを慌てて拾い上げた。
そして恥ずかしげに顔を赤らめた。
「遼……」亜紀は遼の目を見つめ、数回瞬きをした。「それ、ずっと使ってくれてたんだね……」
遼は照れたように頭をかいて、亜紀から目をそらした。「ご、ごめん。こんなにしちゃって……。でも、いつもちゃんと洗濯してるんだよ」
「嬉しい……」亜紀は小さく独り言のように言った。「で、でも……」
亜紀は突然顔を上げて泣きそうな顔をした。
「どうしたんだい?」
「遼がくれたネックレス、失くしちゃったの……昨日……」
そして彼女はうつむいた。
遼はふっと笑って亜紀の髪をなでた。「あれって二十歳の時にプレゼントしたものだろ? ずっと身につけてくれてたんだ。うれしいよ。それだけで十分さ」
「ごめんなさい……」亜紀は申し訳なさそうな目を遼に向けた。遼は柔らかく微笑んでいた。
「チョコレート、食べる?」遼が言った。
「う、うん」
遼は箱を開けて、一粒のチョコレートを亜紀の手を取って乗せた。「日向さん、こうやって、僕の手を取って、食べてみて、って言うんだ」
「あたしが見たの、彼女が遼にそうやってチョコレートを渡す瞬間だったよ」
「ほんとに?」
「うん。だからあたし、すっかり誤解しちゃって……」
「そうか……」
「でも。良かった」亜紀は手に乗せられたチョコレートを口に入れた。「誤解がやっと解けた。この口の中のチョコレートみたいに」
「不思議なことにさ、その時シンチョコのチョコレート食べたら、何だか、すっと心の霧が晴れていく感じがした」
「うん。わかる。落ち着くね、とっても……」
「その次の日だったよ。僕が省悟から事実を知らされたの」
「省悟くんに会ったの?」
「うん。ヤツに強烈なパンチを食らったよ」
「えっ?!」
「僕が君への想いを心の中に閉じ込めて悶々としてる、ってこと、見破られてさ」遼はばつが悪そうに頭を掻いた。「『三年も亜紀を放っとくやつがあるか』って、諭されたよ」
「あたしね、今になって解ったことがあるんだ」亜紀が一つため息をついて言った。
「え?」
「あなたに『別れよう』って言われた時は、すっごく悲しかったけど、それから今までの三年間は、あたし達にとって必要な時間だったんじゃないか、って」
「どういうこと?」遼は亜紀に身体を向けた。
「前につき合ってた頃って、二人ともまだ気持ち的に高校生のままだった、って思うの」
「高校生?」
「うん。些細なことでケンカして、でも相手の気持ちを聞くのが怖くて、突っ張ったり、思い悩んだり。あなたはあたしに気を遣ってなかなか本心を明かさなかったし、あたしも、それならそれで、って構えちゃってて……。表面上は仲良しって言えるかも知れないけど、まだ手探りから抜け出せていなかった、って言うか……」
「わかるよ。それ」
「わかるでしょ?」
「うん。僕はこの街で警察官になってからも、君といつも会っていたくて、でも仕事柄そういうわけにもいかなかったし。だから、君とやっと会えた時は、抱きしめて、キスして、一つになりたいっていつも思ってた」
「どうしてそうしてくれなかったの? 食事して、部屋でお茶飲むだけでいつも帰ってたよね、遼」
「何かさ、そうやって君を求めたら、身体のためだけにつき合ってるって思われそうで……」
「ストイック過ぎだよ、遼。そんなの、男としては天然記念物並みじゃない?」
「だってそうだろ? たまにしか会えないのに、会えばセックスする、って、いかにもいやらしい男の考えることじゃないか。女の身体に飢えてる男」
「あたしはそれでも良かったよ。だって、遼に抱かれると、とっても安心できるし、いっぱい感じられるし……。女だって、好きな男性からそうされるのはとっても幸せだって思うものなんだよ」
亜紀は遼が身に着けているスウェットの上着の裾を持ち上げて、彼の筋肉質の胸を優しく撫でた。
「あ、亜紀……」
「遠慮しなくても、良かったんだから……」
亜紀の手で上半身裸にされた遼は、顔を上気させて亜紀の唇に自分のそれを押し当てた。
「んん……」亜紀はうっとりしたように目を閉じて遼の背中に手を回した。
口を離した遼は、亜紀の目を見つめながら言った。「この三年で、君への想いが熟成されたような気がする」
「あたしも。蛹から羽化して、やっと本当の自分を見てもらえるようになったみたい……」
亜紀の小さなベッドに、亜紀と遼は全裸になって抱き合い、脚を絡め合い、激しく口を交差させていた。
「遼、遼!」亜紀は息を荒げ、また遼の口を吸った。遼は舌を亜紀のそれに絡ませた。下になった亜紀の頬を二人の唾液が一緒になって流れ落ちた。
「亜紀! 好きだ、亜紀っ!」
遼は亜紀の身体を抱きしめたまま、耳たぶを咬み、首筋を吸い、鎖骨を舐め、柔らかい曲線を描く双丘を代わる代わる咥え込んだ。
「ああ! 遼、遼! あたしも好き! 愛してる」
亜紀の身体中に唇と舌を這わせ、最後に彼女の中心にそっと舌を差し込んだ。
「んんっ!」亜紀は呻き、身体を仰け反らせた。
遼の舌は亜紀の谷間と、茂みの下にある固くなった粒を時間を掛けて愛した。
亜紀は過呼吸の症状のように激しく喘いだ。
「遼、遼っ! 来て、お願い、あたし、あなたとまた一つになりたい!」
「亜紀!」遼は叫んで、亜紀の両脚を持ち上げた。「亜紀! いいかい? 入ってもいいかい?」
「来て! 遼、早く来てっ!」
遼は自分の身体の中心で大きく反り返ったものを亜紀の谷間に押し当て、ゆっくりと中に沈め込んだ。
「ああああっ!」亜紀は身体をよじり、大声を上げた。
「亜紀! 亜紀っ!」
遼は激しく腰を前後に動かした。
「遼、あ、あなたの想いを、全部、あたしに頂戴、お願い、全部!」
「亜紀、もう君を離さない! だ、だから、ぐううっ!」
遼の身体がびくんと硬直した。
「ああああーっ! 遼、遼っ!」亜紀が叫ぶ
遼の身体中を駆け巡っていた亜紀への想いの全てが、亜紀の身体に包み込まれた遼自身から激しく迸り、その熱さは亜紀の身体中に広がっていった。
「遼ーっ!」「亜紀、亜紀っ!」
◆
遼の胸の中で息を整えながら、亜紀は幸せそうな顔で言った。「やっぱり安心できるし、すっごく感じられる、遼に抱いてもらうと……」
「そう?」遼は、口をとがらせて、ついばむようなキスをした。「僕もだ、亜紀」
遼は、そのまま亜紀の身体に腕を回した。
「あれ?」
「どうしたの?」
「ちょっと身体を起こして、亜紀」
「う、うん……」
遼が回した腕の下あたり、枕の陰に隠れた場所に、金色に光る、細い鎖がうずくまるようにしてあった。
「あ! 遼のネックレス!」亜紀は大声を出した。「こんなところに! 良かった……」
亜紀は涙ぐんでそれをそっと指ですくい、手のひらに載せて遼に見せた。
遼は何も言わずに微笑んだ。
「ごめんなさい、遼」
「見つかって良かったじゃない。もう5年も経つから切れてしまったんだろうね。後で直すよ」
遼はバッグからライトグリーンのハンカチを取り出し、その細い金色のアクセサリーを亜紀から受け取ると、大切そうに包み込んだ。
亜紀と遼は再びベッドに寄り添って横になった。
「明日荷ほどきしなきゃ、この荷物……」
「そのままでいいよ」遼が亜紀の髪を撫でながら優しく言った。
「え?」亜紀は上目遣いで遼の顔を見た。
「明日、運送屋に電話してさ、送ってもらうよ」
亜紀は遼から身を離して起き上がった。「どこに?」
「僕の部屋に」
「遼……」
亜紀の双眸から涙が溢れ始めた。
「おいで、亜紀……」遼は両手を広げた。
亜紀は躊躇わず彼の胸に顔を埋め、背中に回した手で、ぎゅっと力一杯その逞しい身体を抱きしめた。
「あったかい……」
外の空間では、雪がしんしんと音もなく空から落ちていた。
「積もりそうだね……」亜紀が言った。
「いずれは溶けて、また見えてくるよ。いろんなものがね」
亜紀は躊躇いがちに言った。「今度さ、遼」
「うん?」
「また一緒に小樽に行きたい」
遼は亜紀に顔を向けてにっこりと笑った。「いいね」
「運河の所で、また写真撮ろうよ」
「そうだね。今度は雪が降らない季節に行こうか、梅雨のない6月頃。ハネムーンで」
「う、うん」
亜紀は潤んだ瞳で遼を見つめた。
―― the End
2013,11,21(2014,5,1)
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《あとがき》
『Chocolate Time』シリーズでレギュラーの夏輝が警察官になったということもあって、僕はこの仕事にはとても好印象を抱いています。僕の中では、この警察官という職種には『守るかっこよさ』というイメージが強くあります。人一倍の正義感を持ち、自分よりも他者を思いやる優しさも兼ね備えている、というイメージ。
この物語の主人公である遼くんは、日常生活ではどちらかというと優しすぎて、頼りなげではありますが、ある意味自分に正直で、でもやっぱり不器用な青年です。彼には以前、恋人の亜紀とつき合っていた時に、痴漢被害に遭った彼女を十分に思いやることができなかった、という思いが心の隅に引っかかっています。もっと(精神的に)強くなって、愛する人を守りたい。そう思ったことが、彼を警察官への道へと進ませたわけです。
結果、巡査長として新人研修期の夏輝の指導教官を務めたわけで、勤務態度その他で評価されなければそういう立場には立てなかったと思われます。警察官の資質は十分にあったということですね。
僕の小説の特徴の一つなんですが、登場人物は、たいてい何かに『一途』です。まあ、このシリーズは広く括って恋愛小説のカテゴリーに含まれるので、だいたいは好きな相手に『一途』であるわけですが、これ、どうしてもワンパターンになりやすい。だって、好きならたいてい一途になりますからね、その人に。ただ、その方法というかアプローチのしかたというものが、それぞれのキャラクターやシチュエーションによって変わってくるというところがおもしろくて、登場人物の性格からして、こういう場合はこうなるよなー、というような展開を、実は自分自身楽しんでいるフシがあります。
主人公の遼くんは、すでに僕の作品(外伝第2集第11話『男の矜持タイム』)で登場していますから、この話を読まれたことのある方ならば、その性格や行動パターンはある程度おわかりでしょう。彼は根っからの紳士ですから、話の中で動かすことはたやすい。でも、彼の持つ『弱さ』を表現するのは、なかなか難しいものがありました。表向き『落ち着いたいい人』でも、実はいっぱい悩むことがあって、苦しんでいたりする。この話を含む『雨の物語集』では、そういう男性を描きたかったのです。でも、最後はちゃんと報われて幸せになる。その恋愛カタルシスを味わっていただけたら嬉しいです。
小樽というところは、恋人とのデートスポットには最適ではないか、と僕はかねがね思っています。運河沿いの倉庫群が見事に観光、ショッピング、グルメを楽しめるエリアになっているし、寿司、ジンギスカン、海鮮、パスタなどの魅力的な食もさることながら、北一硝子を始めとするクリスタルな感じは北海道ならでは。
そうそう、ロイズなどのチョコレート屋も忘れてはいけませんね。
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