Chocolate Time 外伝第3集 第6話 そば屋でカレーはアリですか? →目次に戻る

 

 01.動揺 02.来客 03.密通 04.亀裂 05.謀計 06.陥穽 07.真相 08.氷解 09.収束


九《収束》

『嶺士、俺がどんなに土下座して謝ってもおまえは決して赦してはくれないだろう。だが、俺は他に方法を思いつかない。心から謝る、本当に済まない、俺は亜弓ちゃんと寝てしまった。

 親友の妻、高校時代の後輩、ドラマや小説の世界ならいざ知らず、そういう人とカラダを重ね合ったことを俺は激しく後悔している。おまえの怒りは計り知れない。今すぐにでも俺を殴りたいだろう、だけど、それでも気が済まないだろう。そんなことをしておきながらおまえの手の届かないところに逃げてしまった俺をせめて気が済むまで罵って欲しい。

 でもその行為には亜弓ちゃんの遠謀深慮とおまえを心から愛する気持ちがあった。不覚にも俺はそれに朝になってからしか気づかなかった。

 軽蔑されてもいい。俺は自分の気持ちを正直におまえに伝えたい。俺はおまえのことを親友だと思うのと同時に別の妖しげな好意を持っていた。女性を相手にするようにおまえと裸で抱き合って気持ち良くなりたいとも思っていた。その想いは高校の時から少しずつ大きくなっていた。

 でも、俺自身そのことにひどく嫌気が差していた。自分と同じ男を好きになるなんて、なんて不潔な感情なんだと自分を責めていた。裸になって抱き合いたい? キスしたい? 男同士で? おまえはもちろんそうだろうが、俺もそういうことに心のどこかで拒絶感を持っていた気がする。

 ところが、こういう恋愛感情というものは理屈では処理できない。好きなものは好き、好きな人と一緒にいたい、同じ空気を吸って、相手のことを隅々まで知りたい。その熱い気持ちが女性ではなく男であるおまえに向いていた。結論から言えば俺はバイだ。男も女も好きになれる。

 以前つき合っていた女性とのsexでひどい目にあったことが俺がおまえに妖しい情欲を抱き始めたきっかけだったのかもしれない。そう思うと、そういう負の感情が原因でおまえを好きになっていることに俺自身幻滅した。そうじゃない、俺が嶺士という男に向けなければならない気持ちはそんなことじゃない。結局俺は憂さ晴らしや仕返しに近い感情でおまえの肉体を欲していたということだ。まったく無礼なことだと思う。

 あの夜、俺は危うくおまえのカラダを弄んでしまうところだった。シャツをめくり上げ、ジャージを脱がせたところで亜弓ちゃんに見つかり、未遂に終わった。あの時、もし俺が思いを遂げていたら、俺はおまえに絶交され、死ぬまで顔を合わせることができない関係を強いられていただろう。

 こっちに来る時に乗っていた航空機の中で何気なく開いた雑誌にはっとさせられることが書いてあった。ロマン・ロランの言葉だそうだ。

『恋愛的な友情は恋愛よりも美しい。だがいっそう有毒だ。なぜなら、それは傷を作り、しかも傷の手当てをしないからだ。』

 俺はお前を危うく傷つけ、放置してしまうところだった。

 もう大丈夫。俺はおまえを抱きたいとは思わない。

 

 亜弓ちゃんと抱き合っていた時、俺のカラダは性的にものすごく昂奮していた。だが俺は亜弓ちゃんのことを愛していたわけではない。一人の後輩としての親しみ以上のものは持っていなかった。だから安心して欲しい。俺はおまえから亜弓ちゃんを奪おうなどとはこれっぽっちも思っていない。もちろんだからといってあの夜の行為が正当化されるわけではないことも十分承知している。

 あの夜の行為は、俺にとって女性との交わりが最高に気持ち良く、開放的な気持ちにさせてくれるということを初めて教えてくれた。過去に失敗して怖じ気づいていた女性経験に対して初めて前向きになれた。それと同時に、明くる朝、亜弓ちゃんに俺の気持ちを吐き出し、彼女と語り合ったことで、世の中にいる性的マイノリティと呼ばれる人たちについて、俺自身が持っていた偏見もなくなっていった。男が男を、女が女を好きになることはけっして異常なことではないと。だから俺は亜弓ちゃんに心から感謝している。

 

 亜弓ちゃんは二つの意味で俺を救ってくれたことになる。一つは俺の女性に対する正当な見方を改めて教えてくれたこと、もう一つはおまえへの友情を真実の姿に戻してくれたこと。俺がおまえの真の友人であり続ける方が、ネガティブな気持ちに惑わされた妖しげな肉欲なんかよりずっと尊くて大事なことだと亜弓ちゃんは俺に身を以て教えてくれた。

 俺を許してくれとは到底言えないが、亜弓ちゃんのことはどうか赦してやって欲しい。俺のせいでおまえたち夫婦の関係が壊れてしまうなんて俺には耐えられない。彼女の気持ちをわかってやって欲しい。そして彼女と俺とのあの夜の出来事は完全に忘れて去って欲しい。

 この手紙で俺がずっと抱いていた気持ちを知ってしまったおまえが、これからも俺の親友としてつき合ってくれるかどうかはわからない。だが、少なくとも俺はおまえを唯一無二の親友だと今も思っている。

 

 帰国するまで何年かかるかわからない。だけどおまえと会いたくても会えない期間を過ごせるのは幸せなことかも知れない。この期間でおまえへの大切な友人としての思いを確かなものにして来たるべき帰国の日に備えたい。恋心は時と共に枯れていくが、友情は永遠に育ち続けるということを俺は信じている』

 

 相変わらずけたたましいほどに表の街路樹で鳴いている蝉の中にツクツクボーシの声が混じり始めた頃、鶴田家に宮本智志からのエアメールが届いた。

「なんだよ、あっちの生活とか食べ物とかの話題、皆無じゃないか」

 手紙を亜弓と一緒に読み終えた嶺士が呆れた様に言って眉尻を下げた。

「とにかくあなたに伝えたかったんじゃない? このことだけは」

 嶺士はにやにやしながら言った。

「なーにが『恋心は時と共に枯れていくが、友情は永遠に育ち続ける』だ。気取りやがって。自己陶酔ってやつ?」

「なにいってるの。それこそ智志君の正直な気持ちなんじゃない。素直に受け取りなよ」

 嶺士はその白い便せんを大切そうに封筒に入れ直しながら言った。

「あいつらしいよな……」

「一生懸命、今の思いを伝えようとしてるね。どう思った? 嶺士」

「すぐに返事書きたくなった」

「なんて書くの?」

「『心配するな、ずっと俺はおまえの親友だ』って」

「嶺士だって気取ったこと言ってるじゃない」

 亜弓は笑った。

「他にどう書けってんだよ」嶺士は口を尖らせた。

「良かった」

 亜弓ははあ、とため息をついた。

 「ヤツは無理してんな」

「え? どういうこと?」

「俺に気を遣ってるのか、自分のバイ属性を何とかして否定しようとしてるよな」

「嶺士に嫌われたくないからだよ、きっと」

「たぶんそんなとこだろうな。この手紙で俺を抱きたいとは思わなくなったみたいなことが書いてあるけど、そもそもそんな簡単に割り切れるモンじゃないと俺は踏んでる」

「今も智志君、嶺士のことをそういう目で見てる、ってこと?」

 嶺士は頷いた。「自分で思い込もうとしてるだけだよ。でもそれはそれでいい。ヤツが俺を性的な対象として見ていようが、俺は大丈夫。今智志が目の前にいて俺に迫ってきたら、もちろん肉体関係は拒絶するが、気持ちだけは受け止めてやれるよ。女と違って力でねじ伏せられることもないだろうしな」

 嶺士は笑った。

「男同士なら、恋する気持ちが醒めても友情は残るでしょうしね」

「時間はかかるかもしれないけどな」

 小さくため息をついて亜弓が言った。「なんかあたしのしたこと、無駄だったみたい……」

「無駄? なんでだ?」

「嶺士がそこまで理解があるって知ってたら、智志君の気持ちをあなたに伝えるだけにしといたのに……」

「そんなことはないよ」嶺士は亜弓の手を取った。

「おまえが俺や智志のことを真剣に考えてくれて、行動してくれた結果、俺、こんな偉そうなことが言えてるんだ。それに、」嶺士は亜弓に身体を向けてその目を見つめた。「おかげで今までの俺の不甲斐なさも思い知ることができたし、おまえと一緒になれて良かった、って再認識もできた。おまえのやったことは無駄じゃないよ。ほんとにありがとうな、亜弓」

「嶺士……」

 嶺士は照れくさそうに頭を掻いた。「さてと、そろそろ出掛けるか」

 「うん。あたしお腹空いた」亜弓は潤んだ目を人差し指で拭ってにっこり笑った。

  

 嶺士と亜弓の二人は連れだって家を出た。歩いて五分ほどしかかからない所に、すずかけ三丁目の中でも古くからの小売店や老舗が連なる青葉通りアーケードがある。その南寄りの一画にそば屋『蕎麦十』がある。

 創業55年という伝統あるその店の二代目店主明智信介は嶺士の二つ上。高校時代の先輩だった。

 使い込まれた飴色のテーブルをはさんで亜弓と嶺士は向き合った。嶺士はメニューを広げて亜弓の前に置いた。

「何にする?」

 亜弓はいたずらっぽく笑って言った。「カレーにしようかな」

「おまえな」

 嶺士は眉間に皺を寄せて妻を睨んだ。

「冗談よ」亜弓はあはは、と笑った。「そもそもカレーは扱ってないみたいだよ」

「そうなのか?」

 嶺士はメニューを自分の方に向け直して目を落とした。

「ほんとだ。前に来た時にはあったと思ったんだけど……」

「なに、嶺士が食べたいの? また激辛のカレー」

「そ、そんなわけないだろ」

「あはは、ムキになってる」

 店主の信介が水の入ったグラスを運んできた。

「よう。相変わらずラブラブなオーラ出してやがるな、おまえら」

「お陰さまで」嶺士が笑って応えた。「そう言えば大将、ここ、前はカレー出してませんでしたっけか?」

 信介は肩をすくめた。

「やめた。俺が店主になってからな」

「どうして?」

「親父が十年ぐらい前に客層を増やすつもりでメニューに加えたんだが、俺は納得してなかったんだよな、実は」

「そば屋としてのプライドですか?」亜弓が訊いた。

「それが一番大きいね。でもな、カレーっつうのは香りが強いだろ? テーブルでも厨房でもそばの香りを邪魔しちまうんだ。そばを食べに来た客がその匂いに釣られて浮気しちまうのが俺には耐えられなかった」

「なるほど、わかるわかる」

 嶺士と亜弓は同じように大きく頷いた。

「オーバーアクションで納得してくれてありがとうよ」

 信介は笑った。

「で、何にする?」

「あたし盛りそばにする」

「俺はかけそばに肉をトッピング」

「わかった、待ってな」

 信介はテーブルを離れた。

「肉食嶺士」

 亜弓はおしぼりで手を拭きながら、小さな声で言った。

「おまえもだろ?」

 嶺士はにやりと笑って言った。

 

「なになに、『そばには生活習慣病の予防に有効なルチンが豊富に含まれています。ルチンには、毛細血管を丈夫にし、動脈硬化の予防や血圧を下げる効果があります。またそばにはビタミンB1も豊富に含まれています。

ビタミンB1には疲労回復や精神を安定させる効能があります。なお、ルチンは水溶性のビタミンなので、栄養を無駄なく摂るには茹で汁であるそば湯を飲むのがおすすめです』だとよ」

 嶺士はメニューの隅に書かれたコラム記事を読み上げた。

「ビタミンB1ってお肌にもいいんだよね」

「へえ」

「嶺士とのエッチは身体にいいんだね」

 亜弓が言った。

「な、何言ってんだ」

 嶺士はメニューから目を離し、赤くなって亜弓を上目遣いで見た。

「昨夜もとっても素敵だった」

 嶺士は赤くなったまま亜弓に訊いた。「もう胃のムカムカはとれたのか?」

「うん。もうすっかり。和代先輩に診てもらったら、あれは薬の副作用で生理前のホルモンバランスが乱れたせいだったみたい」

「そうか。良かった」

 嶺士は穏やかに微笑んだ。

 

「へい、おまちどう」信介が盛りそばのトレイと肉の載ったかけそばのトレイを両手に持ってやってきた。

「そば湯、嶺士の分までたっぷり入れといてやったからな、亜弓ちゃん」

 信介はウィンクをしてから厨房に戻った。

 嶺士はテーブルに置いてあった七味唐辛子を肉の上に振りかけた。

「またそんなにかけて……。肉が真っ赤じゃない」亜弓は呆れて眉を寄せた。

 嶺士は肩をすくめ、亜弓に目を向け、にやにやしながら言った。

「刺激的なのが好きなんだよ、そばも」

 そして二人は笑いながら割り箸を割った。

 

2017,12,6 Simpson