Twin's Story "Chocolate Time" 外伝第3集 第4話

アダルトビデオの向こう側


《5.事件》

 10月。街路樹の銀杏は黄色と緑のまだら模様にその葉を染めている。時折吹く風はすっかり熱気を失い、美容室帰りの香代の頬に心地よさをもたらした。

 香代が家を出てから三年半が経っていた。アパート暮らしの香代の元に、拓也は毎日決まって夕食後に訪ねて来てくれた。

 香代の同居人リカはよく口にした。あんたたち一緒になれば? と。しかし、拓也はそれまで一度も香代の部屋に泊まったこともなければ、香代を連れ出してどこかで夜を過ごしたこともなかった。

 

「好きなんでしょ? 香代さん」

 リカは缶ビールを飲みながら気だるげに言った。

「たぶん」

「何が『たぶん』よ。好きでもない男が毎晩やって来るのを嬉しがる女なんていないわよ」

「そうね。きっと好きなんだわ」

 香代は皿に載ったナスのしぎ焼きの一切れを箸でつまんだ。

「拓也はプロポーズしてくれたりしないの?」

「まだそんな段階じゃないわ」

「もう深い仲なんでしょ?」

 香代は首を横に振った。

「違うの?」リカは少し驚いて言った。

「手を握ってくれることは時々……」

「信じらんない」リカは思わずビールの缶を口から離して叫んだ。「だって、あんたたちが出逢ってもう三年も経ってるのよ? 最初から拓也に惚れてる風だったじゃない、香代さん」

「惚れてたってわけじゃ……」

「香代さんが許さないの? キスも? 撮影ではもう何人も男とベロチューしたりナニを咥え込んだり、繋がって中出しされたりしてるのに? 信じらんない!」

「でも、私と拓也君の関係はそうなのよ」

 香代はナスの一切れを口に入れた。

 リカは呆れてしばらく香代の顔を見つめていた。

 

 缶に残ったビールを飲み干すと、彼女はそれをテーブルに置いて言った。

「ま、いっか」

 

 しばらくしてリカは、茶碗蒸しをスプーンですくいかけた手を止め、彼女らしくないため息をついて低い声で言った。

「あたい、そろそろ潮時かなって思ってる」

「え?」

「30も過ぎたし、こんな仕事ずっと続けられる気がしないよ」

「そう……よね」

 香代はうつむいた。

「実はね、」リカがテーブルに身を乗り出して言った。「香代さんにはずっと内緒にしてたけど、あたい、黒田の愛人なんだ」

 香代はびっくりして目を上げ、思わずリカの顔を見た。

「あんたがここに来て三か月ぐらい経った頃だったかな、いきなり言い寄られてさ、一回につき5万円くれるからあたいもずっとあいつに抱かれてる」

「そうだったの……」

「ちっとも良くないんだよ。全然感じない。しかもあいつでかいから上に乗っかられると苦しくて息ができなくなるほど。まあ、そこ30分ぐらいで終わっちゃうし、もらえる小遣いに釣られて続いてるようなものね。でも、最近あいつ減額し始めたんだ」

「減額?」

「先週は3万円しかもらえなかった」リカは自嘲気味に笑った。「あたいの仕事もめっきり減ってきたしね。もう以前みたいに売れなくなったんだよね、あたしのAV。だからこの仕事自体が嫌になってきたってことかも。わかるでしょ?」

「……」

 

 茶碗蒸しの中から掘り出した銀杏を口に入れて、リカは言った。

「ところで香代さん、もうずいぶん返せたんじゃない? 例の借金」

「そうね、こないだ林さんに訊いたらだいたい150万ぐらいになってるって仰ってたけど」

「はあ?!」

 リカは大声を出した。

「ちょっと待って、香代さん、あんたの今のギャラは20万だって聞いたよ? その6割のうちの半分をあいつに渡して黒田に返してもらってるんじゃないの? それに、DVDが売れればその利益の一割が上乗せでもらえるんでしょ?」

「そうだけど……」

「めちゃめちゃ売れてるらしいじゃん、あんたのDVD」

「そうみたいね」

「なによ、あんまり嬉しそうじゃないわね」

「なんか……自分がいやらしい男たちの慰み物になっているかと思うと、なんかね」

 リカは心底呆れたように言った。「香代さん、あんた根っからAV女優には向いてないわ」

 

 実際香代の出演作品『カヨコ――犯される人妻』シリーズは爆発的に売れていた。DVDの制作販売を手がけるAVメーカー『クリエイト・えろす』のドル箱的存在で、シリーズの作品数はすでにAV界では異例の30本を超えていた。相手の男優の演じる職業も警察官、教師、消防士、医師、政治家、土木作業員など多岐に亘り、カヨコがそれらの男たちから言い寄られ、時には縛られ、また時には優しく落とされて犯されるシチュエーションがファンにはたまらない魅力となっていたのだった。

 そのシリーズのネットの販売サイトに掲載されたレビューには、犯されて抵抗するカヨコが見せるリアルで切なげなまなざしと、それ自体が女体を愛撫しているような官能的で優雅なカメラワークが絶妙にマッチしていて昂奮度が高い、と書き連ねられていた。

 

 多くのファンたちは、カヨコの別のシリーズにも惜しげなく手を伸ばしていた。この三年間で制作されたのは、夫に秘密で愛人をもうけ、その男と一泊の旅行で濃厚に愛し合う、AVにしては旅情豊かなストーリー性の高い『カヨコの不倫旅行』シリーズ、街や観光地で誘惑した男を睡眠導入剤で眠らせ、ホテルで逆レイプするサスペンス仕立ての『魔性の人妻カヨコ』シリーズの二つ。

 これらの三つのシリーズはそれぞれ描かれる物語の傾向やシチュエーションがかなり違うものだったが、いずれもカヨコが主演、カメラが姫野拓也という組み合わせというだけで間違いなく売れた。『クリエイト・えろす』にとっても黒田にとっても、この女優とカメラマンの二人は絶対に手放したくない人材なのだった。

 

 しかしカヨコを演じる香代は、三年以上経っても撮影で気持ちよくなることは皆無だった。それなりに演技力はついたが、どんな男優に抱かれても、どういうシチュエーションの台本を渡されても、身体は熱くならなかった。それでもこれまでAV女優としてやってこれたのは、それを仕事だと割り切り、無意識に感情や身体の反応を抑えることを覚えたからだと香代自身は思っていた。全ては夫の残した借金を返済するために……。

 ただ、拓也が操るカメラを見つめる時、演じる香代は図らずも自分の境遇や運命を思い、自分でも気づかないうちに切ない表情になってしまっているのだった。たとえお互いに愛し合う男との情事のシーンでも、自分が落とした男を逆レイプする場面でも、カヨコは決まって哀しく、切ない表情をしながらクライマックスのシーンを迎えるのだった。多くのファンはその陰りのあるカヨコの表情を『カヨコ・フェイス』と呼び、持てはやしていた。しかし演じている本人の香代は巷の男たちがそういう自分の顔を見ていたずらに昂奮していることを思う度、ひどくやるせない気持ちになるのが常だった。

 

「香代さんのこのナスのしぎ焼き、あたい大好物なんだ」

 リカがぽつりと言った。

「そう? 夏からけっこうナスばっかり使ってるから飽きたんじゃない?」

「そんなことない。あたいここで香代さんに作ってもらうまで、こんなナス料理知らなかったもん。旬が終わる前に教えて。作り方」

「もちろん。いいわよ」

 

 リカは壁の黒い文字盤の時計を見上げた。

「そろそろ拓也の来る時刻じゃない?」

「ほんとだわ」

 香代はひどく嬉しそうな顔をした。

「幸せそうな顔して……」

 リカは呆れたように眉尻を下げて、茶碗蒸しの器に蓋をした。

「ごちそうさま。とってもおいしかった」

 

「そう言えば、黒田が言ってた」

「え? 何て?」

「カヨコシリーズは他の作品の二倍売れてるって」

「そうなの……」

 食べ終えた皿に口元を拭ったティッシュを丸めて置いて、香代は湯飲みのお茶をすすった。

「拓也のカメラワークもすっごく評判でさ、うちの事務所の女優が出演する作品のカメラマンの中ではダントツじゃないかな。彼が回す作品は、それだけで2割ぐらい売り上げが多いって。でもエッチなDVD買う人が姫野拓也っていうカメラマンまでチェックして選んでるなんて、すごくない?」

「あの人には才能があるのよ。私、ずっとそう思ってた。辛いことも多かったはずなのに。すごい人よね、あの人」

 香代は独り言のように言った。

「以前から認められたカメラマンだったけど、『カヨコシリーズ』を撮り始めてから、その腕にますます磨きがかかったようだ、ってどっかの雑誌にフリーライターが書いてたの、読んだことあるよ」

「ほんとに?」

「しばらくは黒田も『クリえろ』も手放さないよあんたも拓也も。売れてる間は酷使されるかもよ」

 香代は困った顔をした。

 

「でも、そんなあんたが返した借金が三年で150万なんてあり得ないよ。林にごまかされてるんじゃないの? ほんとに」

「心配してくれてありがとう。だけど私もタンスにけっこう貯めてるのよ」

「知ってる。でも空き巣泥棒が来たらパーだよ?」

「私の部屋、質素だし、引き出しの中じゃなくて、タンスの底に隠してるから大丈夫よ」

「いくらぐらい貯まってるの?」

「もうすぐ100万ぐらいにはなるかな」

 リカは眉をひそめた。

「あんまり人に話さない方がいいんじゃない? そんなこと」

「早く借金を返して息子に会いたいもの」

 香代は肩をすくめてふふ、と笑い、食器を持ってソファから立ち上がった。リカはその後ろ姿を目で追って小さなため息をついた。

 

 

 『シンチョコ』の前庭に並んだプラタナスも、その葉が色づき、朝日に明るく映えていた。

 この春高校を卒業し、家業の工務店に就職した将太は、子供の頃からまるで家族の一員ように関わってくれたこの店の主ケネスを心から慕っていた。卒業とともに将来の約束を交わした音楽教師鷲尾彩友美と現在交際中で、結婚することを彼女の両親に認めてもらうために、将太は祖父建蔵の元で必死で働いていた。彩友美の両親は、将太が一人前になり、経済的に安定しない限り二人を結婚させるわけにはいかない、と言い渡していたのだった。

 

「久しぶりやな、将太」

「ケニーおっちゃん、ごぶさた」

 その作業着姿の若者は持ってきた菓子折をテーブルに乗せ、向かいに座ったケネスの前に置いた。

「なんや、こないな気ぃ遣わんでもええがな。しかしスイーツの店によその菓子を持ってくるなんぞ、なんちゅう無神経さや。しかも開店前のこの忙しい時間帯に」

 ケネスは笑った。

「ごめん、それもそうだね」

 将太は頭を掻いた。

「そやけどわい、この店のフィナンシェ、大好きなんや。誰からか聞いたんか?」

「うん。マユミおばちゃんに」

「へえ。おまえもなかなか気が回るようになったやないか。感心なこっちゃな」

 将太はまた頭を掻いた。

 

「どや、彩友美先生とはうまくいっとるんか?」

「うん。お陰さまで」

「ご両親の許しはもらえそうなんか?」

「うーん、まだ許可は出てないけど、感触は悪くないよ」

「そうか。まあ、頑張りや」

「ありがとう、おっちゃん」

 

 ケネスは将太の目を見つめ、静かに言った。

「将太、高校時代荒れてたおまえは彩友美先生に救うてもろたわけやけど、正直今はどうなんや? 母ちゃんの香代さんのことどない思とるねん」

 将太はうつむいた。

「正直言って、まだ母ちゃんのやったことは許せない。でも俺、あの人を憎むことなんかできないよ」

「そうやろな。それでええ、将太」

「現実を受け入れるしかない、って今は思ってる」

「あれから三年半経ったんやな。早いっちゅうか……」

「そうだね……」将太は伏し目がちにテーブルのカップに手を掛けた。

 

 ケネスは少しテーブルに身を乗り出して言った。

「もし、もしやで、母ちゃんと再会できたら、おまえなんて言う?」

「……」将太は口をつぐんだ。

「言わば生き別れ状態やろ? いずれひょんなことで出会うかもしれへんで」

「たぶん、」将太は顔を上げた。「言いたいことは山ほどあるけど、何も言えないと思う」

「そうか……」

「母ちゃんが違う男のものになった、なんて俺は信じたくないんだ。でも、それが現実だと思うと……」

 将太は指で涙を拭った。

 

 ケネスは躊躇いがちに言った。

「今さらやけど、それ、ほんまに事実なんか?」

「え? 事実かって?」

「いや、ちょっと信じ難い話やから……」

「じいちゃんが言ってた。母ちゃんがいなくなってすぐ手紙が届いたって」

「そうらしな」

「『好きな人ができました、もう家には帰りません』って書いてあったらしい」

「おやっさん、まだ高校生のおまえにそんな酷い事実、教えてくれたんか?」

「じいちゃん、相当怒ってたから……」

「他にはどんなことが書いてあってん」

「何も。たったそれだけだったって」

 

 ケネスはずっと心に引っかかるものを持っていた。出て行く前の香代は病床の夫稔をかいがいしく世話していた。もちろん息子の将太も愛し、義父の建蔵にも人並み以上に尽くしていた。それはケネスも、他の知人の誰もが疑いなく知っていたことだ。その香代が大切な家庭をあっさり捨てて、その上たった一文の、あんな突き放すような手紙を書いてよこすだろうか、と。

 

 

 年が変わった。例年に比べて寒さの厳しかった冬がやっと終わり、日差しや風の温かさがいつもにましてありがたく感じられる春3月だった。

 

 前日の撮影の疲れが残っていた香代は、近くのマッサージ師の元を訪ねた。

 その店の前の猫の額のような花壇にはパンジーとデイジーが並んで花を咲かせていた。行きつけのその店は、狭い間口のひっそりとしたたたずまいで、香代にとってここの老婦人に身体をほぐしてもらっている間が、何より気分を落ち着かせ癒やされる時間だった。

 

「カヨコさんも、もう長いわねえ、この仕事」

 その穏やかな物腰の店主は、手をアルコール・ジェルで殺菌しながら皺の刻まれた顔を香代に向けた。

「そうですね」

「いつまで続けるつもり?」

「まだ……わかりません」

「そう。あまり無理しないでね」

 彼女はベッドにうつぶせになった香代の肩を柔らかく揉み始めた。

 二人は、それ以上会話を続けなかった。

 

 

 アパートに帰った香代は、キッチンがいつになく片付き、きれいに拭き上げられていることに気づいた。いつもならリカの飲んだビールの空き缶が数個、シンクの脇に転がっているはずだったが、この日は違っていた。

 それでも、香代は取り立てて気にすることもなく自分の部屋に入った。

 

「いつまで続けるつもり……か」

 香代は自分の部屋に入り、タンスの一番下の引き出しを抜いた。

 

 ない。そこにあるはずのベージュ色の小さなハンドバッグがない。

 

 毎回受け取るギャラの中からコツコツと密かに貯め込んでいた現金が入ったバッグがなくなっている。

 

 香代は三段ある引き出しを全部引っ張り出して中を掻き回してみたが、それは見つからなかった。彼女は慌ててスマホを手に取った。

「拓也君!」

『ああ、香代さんどうしたの? 大声出して』

「拓也君……」

 涙声になっている香代の異変に気づいた拓也は、理由を訊くこともなく早口で言った。

『待ってて、すぐに行くから!』

 

 間もなく訪ねてきた拓也に香代は泣きそうな顔を向けた。

「お金がなくなってるの」

「な、なんだって?」

「私が貯めていたお金が」

「泥棒に入られた?」

 拓也は部屋の中をぐるぐる見回した。

「たぶん……」香代は力なく言った。「リカさん」

「ええっ?!」

 

 二人はリカの部屋の襖を開けた。和室の畳に敷かれた水色のカーペット、そこに置かれた一人用のベッド、部屋の隅の衣装ケース、全てそのままだった。

 ドレッサーの上に、無造作に置かれていたスマホを手に取った拓也は、唇を噛みしめた。「もうバッテリーが切れてる……」

 

「どうしよう……」

「でも、なんでリカがお金を盗ったってわかるの?」

 香代は言いにくそうにつぶやいた。

「お金の隠し場所を知っていたのはあの人だけだから……部屋も荒らされてなかったし」

「そうか……間違いなさそうだな」

 

 

 拓也と香代は『Pinky Madam』のオフィスに黒田を訪ねた。

 

「知っとる」

 黒田は憮然とした表情でいつものデスクに向かっている。いつもと違うのはその顔が青ざめ、両肘をついて頭を抱えていたことだ。

「あいつを探さにゃならん」

 香代が言った。

「社長にも何か困ったことでもあるんですか?」

「あんたには関係ないことだ」

 拓也が黒田の目を見据え、静かに、しかし凄みのある声で言った。

「社長の愛人だったんでしょう? リカは」

 黒田はきっと拓也を睨み付けた。そしてしばらくの沈黙の後、苦々しげに口を開いた。

「おまえたちに言う義理はこれっぽっちもないんだが、」

 

 黒田の話によると、リカは昨日ここに来て、その愛人関係を解消したいと言い出したのだと言う。そして仕事も減って待遇も悪くなってきたことを理由に辞めたいと伝えてきた。黒田は考え直せと凄んだがリカは色よい返事をしなかった。黒田が必死で慰留を繰り返すと、経済的に苦しいのを保証しろ、と言い出し、今後一年分のギャラの前払いを条件に、後一年だけここに残ることを承諾した。しかしその前払いの要求に応えなければ自分と愛人関係だったことを妻の厚子にばらして即座に会社を辞めると脅し、黒田はしぶしぶリカの働きから換算した400万円を手渡したのだと言う。

 

「持ち逃げ……か」

 拓也はつぶやいた。

「私の部屋のお金も盗られたんです」

 香代が言った。

 ちらりと香代を見やった黒田は吐き捨てるように言った。

「これほど手癖の悪い女だとは思わんかった」

 そして黒田は自嘲気味に言った。

「まさか飼い犬に手を噛まれるとはな」

 

「社長、」拓也がデスクの横に立ち、黒田を見下ろした。「一つ訊いていいですか?」

「なんだ」

 黒田はめんどくさそうに拓也を見上げた。

「香代さんのギャラから林さんが受け取って貴男に返しているという借金、今いくらぐらい返済が済んでるんです?」

「い、いきなり何を……」黒田の視線が揺れ始めた。

「教えて下さい」

「ひ、100万ぐらいだったか……」

「そんな!」香代が叫んだ。「そんなはずはありません。そんな少ない額のはずは」

「おかしいですね」拓也は眉を寄せて手をこまぬき、黒田を見下ろした。「この会社で一番の売れっ子カヨコのDVDの本数とその販売枚数から考えたら、もうとっくに全額返済できているはず」

「そ、そのことについては林に任せとるから」

 黒田のいつもの威勢がどこかにいっていた。

「林さんはどこです?」拓也は迫った。

 黒田は二人から目を背けたまま開き直ったように椅子にふんぞり返り、ぽつりと言った。

「今、リカを探し回っとるよ」

「じゃあ帰ってきたら教えて下さい。訊きたいことが山ほどある」

 拓也は早口でそう言って、香代の手を取り、そこを出て行った。

 

 

「どうだ、林、手がかりはあったか?」

「いえ」林は苦々しい表情で向かい合って座った黒田に言った。「アパートも調べましたが、何もかもそのままでした」

 そして林は部屋に残されていたというリカのスマートフォンを黒田に手渡した。「バッテリーが切れています」

「おまえリカの部屋に入ったのか? 勝手に」

「そうですけど。何か不都合でも?」

「香代がいたら怪しまれるだろうが」

「留守でしたけどね」

 黒田は林を上目遣いで見ながら低い声で言った。

「ついさっき拓也と香代がここに来たんだ」

「え……」

「危うく鉢合わせするところだったぞ、あの二人と」

 黒田はその痩せた男を睨み付けた。

「香代の部屋にあった現金もなくなっていたらしい。おそらくリカの仕業」

「と、とんだ悪女ですね」

 

「それより、あの二人、俺たちを疑っとる」

 林は声を潜め、身をかがめて黒田に耳を近づけた。

「金……ですか?」

「このままやつらに妙な動きをされると、最悪香代の夫の借金が嘘だということがばれてしまう」

「ま、まずいですね……」

「おまえが戻ったら連絡しろ、と言っておったわ」

 林は青ざめて言葉を失った。

「何か手を打たねばならんな」

 林は囁くような声で言った。「そうですね……」

 

「それで、おまえが香代のギャラから今まで受け取った金は総額いくらぐらいになっとるんだ?」

 林は口を閉ざした。

「『クリえろ』からおまえに支払われた香代の出演料の一部だ」

 

 林の額には脂汗が滲んでいた。

 

「あれは俺が立て替えた借金の返済という理由だったはずだ。いくらになった?」

「それも作り話でしょう?」林はかすれた低い声で言った。「元々香代に借金などない。夫が女を囲っていたという話自体真っ赤な嘘」

「何が言いたい?」

 黒田は上目遣いで林を睨み、唸るような低い声で言った。

 林は大声で言った。

「私のお陰で香代をこの会社に引き込むことができた。あんたはその売り上げで腹を太らしてるじゃないか。私にはそれぐらいの利益があってもいい!」

「つまり、その金は全部自分の懐に入れた、というわけなんだな?」

「当然の権利だ」

 黒田はいきなり立ち上がり、叫んだ。

「もういい! 出て行け! おまえの顔なんぞ、金輪際見たくないわ!」

 

 

 結局、拓也と香代は林本人から話を聞くことはおろか会うことさえできなかった。

 

 二人が揃って事務所を訪ねてから四日が過ぎた日、朝早くに警察から拓也に電話があった。

 拓也はリカが出て行ってから香代を一人にしておくことが心配で、ずっとこのアパートで寝泊まりしていた。

「香代さん、僕今から警察に行ってくる」

「えっ? 何? どういうこと?」香代はひどく不安そうな顔をした。

 拓也はふっと笑った。

「大丈夫。僕が何かしでかしたってわけじゃなくて、黒田の会社について話が聞きたいっていう用件だから」

「そう……」

「聴取が済んだらすぐに戻って、貴女にも話してあげるよ」

 拓也は香代の手を取って微笑んだ。

 

 拓也がアパートを出て行った後、ドアを閉めた香代が部屋に戻ったとき、まるで見計らったかのようにスマホの着信音が鳴り始めた。

 公衆電話からの着信だった。

「もしもし……」

『あ、香代さん? あたい、リカ』

「リカさん!」

『今日、行っていい? そこに。話があるの』

「え? あの……」

 香代は自分の金を盗んだリカを許せない気持ちになっていたが、あっさり向こうからコンタクトをとってくるのは想定外だったので、その返事に窮していた。

『待ってて、お昼過ぎぐらいには行けるから』

 

 

 午後二時頃、玄関ドアを開けてリカが顔を覗かせた。中では拓也が鬼のような形相で仁王立ちになっていた。

「リカ!」

「おっと……」リカは思わず仰け反り、足をすくませた。

「おまえに話がある!」

 リカは呆れたような顔で拓也を睨み、玄関に足を踏み入れた。

「あたいだって話があるから来たんじゃない。とにかく入れてくんない? そこどいて!」

 

 リカは金色だった髪を黒く染め、控えめなリップとアイラインでずいぶん大人しい印象に変わっていた。リビングのソファで香代と拓也に向かい合った彼女は、バッグから紙の包みを取り出し、どさりという音を立てて二人の前に置いた。

「はい。これ。500万あるわ」

 香代と拓也は面食らって固まった。

「たぶん誤解してるわよね、あたいのこと」

「こ、これは?」

 香代がようやく口を開いた。

「あんたのタンス預金100万と黒田から巻き上げた言わば慰謝料の400万」

「慰謝料?」

「香代さんが受け取るはずのギャラの一部。ほんとはもっとたくさんあったんだろうけどね。林が香代さんの出演料から天引きしていたっていう額はこんなもんじゃないはずよ」

「確かに。警察の話と合うな……」拓也は顎に手を当ててつぶやいた。

「警察? 呼ばれたんだ、拓也、警察に」

 リカはにっこり笑った。

「今日の午前中いっぱいかかって事情聴取されたよ」

「で、どうだった?」

「つまり、黒田の事務所が脱税の疑いで税務署から監査が入って、結果警察の捜査も受けた。そしたら、」

「そしたら?」

「略取・誘拐罪、監禁罪、強姦罪に詐欺罪までおまけでくっついて逮捕」

「ええっ?!」

「8人もの女性を誘拐して無理矢理ハダカにして撮った映像をネタに脅して監禁、その子たちを使ってAVを制作して闇で売りさばいて大もうけしてたってことが発覚したらしい」

「なんですって?!」

「リカも知ってるだろ? 駅の先にあるボロいアパート」

「ああ、あれ。あそこに誘拐した女たちを監禁してたってことなの?」

「その責任者が黒田厚子。救出された子たちはみんな逃げる気力を失ってて、目も虚ろだったらしいよ」

「洗脳されてたのね……」

「しかも8人のうち三人は誘拐時未成年、一人は未だに19歳」

「ひどい……」香代は思わず口を押さえた。

「黒田夫妻と林は即刻逮捕。事務所も閉鎖。資産は没収。事務所とその所有物件は管財人に管理が任せられる」

「ってことはこのアパートも?」

「そういうことだね」

「そうか。じゃああたいも香代さんもここを出て行かなきゃなんないってことね」

「住む場所はあるのか? リカ」

「目星はついてる。一人だからなんとでもなるわ。香代さんはどうするの? って、拓也んとこに転がり込めばいいか。野暮なこと訊いたね」

 リカは舌を出して頭を掻いた。

 

 拓也が言った。

「香代さんの亡くなったご主人が女を作って、っていう件も全てでたらめ。林が弁護士っていうのも真っ赤な嘘。つまり、香代さんがここで働かされていたのも、その出演料をピンハネしていたのも、ことごとく奴らの汚い企みだったってことなんだ」

 リカは怒りに唇を震わせながら言った。「あたいが直接あいつらの首を絞めてやりたいわ」

 

「内部告発があったって警察は言ってたけど、誰かな……」

「あたいよ」

「おまえか」

「生意気で横暴でやりたい放題だった黒田たちを懲らしめてやんなきゃ、ってずっと考えてたからね。でも、あいつらが法に触れることをやってた証拠を掴んだってわけじゃなくてさ、単に虫が好かないから言いつけてやれ、みたいな感覚で通報したのよ」

「なかなか場当たり的だな」

 えへへ、と笑ってリカは続けた。「でも思ってた以上に極悪人だったってわけね、あいつら。闇でそんなあくどいことやってたなんて」

「そうだな」

 

「だけど、今回あたいが実行に移せたのは香代さんのお陰って言えるかも」

 香代は顔を上げた。

「え? どうして私?」

 リカは呆れ顔をして言った。

「香代さんってお人好し過ぎだもの。人を疑うことを知らないから、あたい気が気じゃなかった。いつも」

「そう……ね。確かに」

「タンスのお金だって、愛する息子に早く会いたいあまり、林にそっくり渡しちゃうかもしんない、ってずっとはらはらしてたんだから」

「だから黙って盗んだのか」拓也が言った。

 リカはむっとしたように言った。

「人聞きの悪い。盗んだんじゃなくて預かってたの」

 そう言った後、リカは涙ぐんで身体をこわばらせている香代の手をそっと取って言った。

「これで、晴れてご家族の元に戻れるわね、香代さん」

 香代は何も言わず肩を震わせていた。

「おまえはどうするんだ? これから」

 拓也が訊いた。

「あたいは地道に生きていくよ。今、スーパーのレジ打ちやってんのよ」

 リカはうなじに掛かった後ろ髪をさばいてみせた。

「おまえが?」

「似合わないっての? 大きなお世話」

 リカは笑った。

6.心の奥底
6.心の奥底