Chocolate Time 外伝第3集 第5話

 

デザートは甘いリンゴで 03.初めての夜


 美穂が増岡と初めてその身を重ね合ったのは、交際を始めて五か月が経った春の日だった。それは美穂が彼を名字でなく『英明さん』と呼び始めてすぐの頃だった。

 結婚式場も備えたグランドホテルの一室。ダブルの客室は最上階に近い12階にあった。ホテル内のレストランで食事をとった後、美穂は日頃あまり見せたことのない不安げで硬い表情の英明に連れられ、その部屋に入った。

 

 「なんか、緊張するね」

 先に口を開いたのは英明だった。

 「そ、そうですね」

 上着も脱がず、ネクタイも緩めず、英明はベッドの端に腰掛けた。

 「ここに……」

 立ったままの美穂を見上げて、英明は言った。美穂はその言葉に従い、彼の隣に腰を下ろした。

 英明は右手をそっと美穂の右肩に置いた。

 体温が感じられる程に身体を近づけたまま、美穂は見上げるようにして英明の顔を見た。英明は美穂の頬を両手で包み込み、ゆっくりとキスをした。少し唇が震えていた。二人の歯が小さくカチリ、とぶつかった。

 「あの……」両手を自分の膝に置き直して英明が言った。「じ、実は、僕、女性経験が浅くて……」

 明らかに緊張していることがその声のトーンから解る。

 「こんな歳になって恥ずかしいね……」

 美穂はその雰囲気を和ませようと努めて明るい声で言った。

 「気にしないでください。貴男のペースで」

 英明は申し訳なさそうに美穂の顔を見た。

 美穂は柔らかな微笑みを返した。

 「お任せします……」

 

 英明はようやく上着を脱ぎ、ネクタイをほどくとワイシャツのボタンを外した。そして再び美穂の唇に自分のそれを重ねた。一回目の時よりも熱い息が美穂の口の中に吹き込まれた。

 

 二人は着ていたものを全て脱ぎ去り、ベッドの上に横になっていた。英明はしきりに美穂の身体を撫でたり、首筋に唇を這わせたりした。確かにその行為はぎこちなく、さっき彼が言ったことは本当だったのだと美穂は納得した。

 仰向けにされ、覆い被さってきた英明の身体を、美穂は薄目を開けて見た。その男性はすでに全身に汗をまとい息を荒くしていたが、その中心にあるものは十分に硬くはなっていないようだった。

 それでも英明は枕元に置いていたプラスチックの包みを手に取り、長い時間を掛けてそれを自分のものに装着した。

 燃えるような、という形容にはほど遠い美穂の身体の状態だった。普段、夜に自分のベッドに横になっている時と、ほとんど変わらない冷静さに、美穂は自分のことながら呆れてしまっていた。

 英明が中に入ってきた。何とかそれが大きさと硬さを備えていたことを、美穂はその感触で知った。

 「美穂」

 英明が初めて自分を呼び捨てにしてくれた。それが美穂には訳もなく嬉しくて、少し涙ぐんで両脚を思い切って大きく広げ、腕を突っ張ったままの英明の背中に手を回した。

 英明が腰を大きく前後に動かし始めると、美穂の身体もしだいに熱を帯びてきた。そして額に汗しながらはあはあと息を荒げ身体を揺する英明に合わせて、美穂もその腰を大きく動かし始めた。

 

 英明はなかなか上り詰めなかった。いつしか全身にびっしょりと汗をかき、顎からその雫がぽたぽたと美穂の胸に落ちて流れた。

 しばらくして動きを止めた英明は、大きく肩で息をしながら下になった美穂をばつが悪そうに見つめて上ずった声で言った。

 「ご、ごめん、もうちょっとなんだけど……」

 「いいの、気にしないで」美穂の声もかすれていた。

 

 長い時間が掛かり、息が切れそうになって何度も動きを止めながら英明はその腰を機械的に動かし続けた。いつしか美穂の中に入っていたものの摩擦が少なくなっていた。そして唐突に英明は顎を上げ、ひどく苦しげな表情をして喉元でぐうっと呻くと、びくびくと身体を脈動させ始めた。

 美穂も全身にびっくりするほど大量の汗をかいていた。

 

 全てが終わった後、英明は小さく萎えた自身のものを美穂から抜いて、ばたんとベッドに仰向けになった。

 「大丈夫? 英明さん……」

 はあはあと収まりきれない息を整えようと焦りながら、英明は今までで一番申し訳なさそうな顔を美穂に向けた。

 「ごめん……」

 美穂は身体を横に向けて、英明の胸にそっと手を置いた。

 「どうして謝るの? 良かったです、とっても」

 そう言いながらも美穂の身体の中にはまだ、完全に燃えきれず十分に熱を発しきれていない部分が残り、むずむずとした小さな疼きがその奥深くにわだかまっているのも事実だった。

 

 

 英明が美穂に交際を申し込んでから約一年後、あの日と同じような秋晴れの爽やかな午後、彼は『シンチョコ』に美穂を呼び出した。そして彼女の目の前に白いジュエリーケースを置いた。

 「僕と結婚して欲しい」

 美穂は恥ずかしげにうなずき、そのケースの蓋を開いた。細い金色のリングが輝いていた。

 英明とこうなることは美穂には予測できていたし覚悟もしていた。世の中の多くの男女と同じように、順調に交際を続けて愛を育み、満を持して男性がプロポーズし、それを女性が受け入れる。そういうテキスト通りの展開が自分の身に起こったことを、美穂は誇らしく感じていた。自分も順調な人生のレールに乗れたという満ち足りた気分に浸っていた。

 ただ、初めての夜からその日まで、英明が美穂の身体を求めたのは片手の指の数にも届かなかった。標準的な男性に比べると、その回数は極端とは言わないまでも少ないことは美穂も実感していた。

 美穂は結婚について『家庭』という意識を強く持っていた。実際に英明は自分にとってかけがえのない存在になっていたし、自分の将来と彼の将来を重ね合わせると、二人にとって結婚という判断は最良のものに思えた。恋愛という言葉につきものの燃えるような思いというものは、得てして人間の判断を鈍らせてしまうものだ。最初に尊敬し合い大切に思う気持ちがあって、肉体的な繋がりは後からついてくる。そういったある程度の冷静さを持って結婚という人生の重大な局面を迎えるのがベストなのだと美穂は考えていた。そういう意味でも、身体の繋がりがきっかけでもメインでもない英明との交際は間違っていなかったと美穂は自分に言い聞かせるのだった。

 

 

 結婚式を三か月後に控えた夏の日、美穂は二年間働いた職場を自ら退職した。勤めていた事務用品店のチームの仲間からあからさまに無視されるようになったからだった。

 原因はこうだ。

 チームの中でも抜きんでて愛想がよく明るい雰囲気の美穂は、取引先の学校などでもいろんな教師に声を掛けられ、親しげに話しかけられる場面が少なくなかった。もちろんそういうことを美穂は仲間に自ら吹聴したりはしなかった。逆に彼女はそういう仲間とは明らかに違う扱いを学校現場という仕事場で受けることに当惑すらしていた。

 そしてそれが心配していた悪い方に転がったのだ。

 S中学校の女事務長が美穂と英明のなれそめについて、悪意を含んだ枝葉をつけて会社の社長に告げ口をしたのだ。あの高森美穂という社員は学校でいろんな職員に色目を使い媚びを売って回っている。目に余るから何とかして欲しい、と。

 その事務長は英明とは同期で、どうやら密かに彼を狙っていたらしかった。確かに英明はそこそこのルックスと高身長の持ち主で、授業やクラス運営に関しても生徒や保護者の絶大な信頼を得ていた。その上学校の教育の中心として、その活動の全体を束ねる研究主任としての実績もあり、言わば学校職員の模範的、中心的存在で、校長や教頭の管理職から常に教頭試験を受けるよう薦められるような人材だった。要するに将来有望なエリート教師で、先々管理職への道も保障され、それに伴って収入も増加していくという、女性にとっては結婚する相手として誰が見ても魅力的な人物だったのだ。

 それを自分の目の前で、教材屋の平社員の女にまんまとかっさらわれてしまったわけである。何か仕返しをしたくなる気持ちはわからなくもないが、言ってしまえばただのやっかみに過ぎない。

 あまりにばかばかしくて美穂は会社を辞めることを即断したのだった。

 英明もそのことをひどく気にして、美穂が会社を辞めたと聞いた時、彼女の経済的なことを心配して結婚を早めるかすぐにでも一緒に住み始めよう、と提案したが、まだまだ健在で仕事も続けている親とも同居していて食うに困ることはとりあえずなかったし、何より結婚式に合わせて自分なりのモチベーションを高めている途中でもあり、そういう反吐が出る程低レベルかつ些末なことで予定を狂わされるのは心底いやだった。