その日、8時頃校内の戸締まりを済ませて職員室に戻った英明は、初任三年目の数学教師秀島あかりが落ち込んだ様子で机にほおづえをついているのに気づいた。他の職員は全員帰宅した後で、彼女の他には誰も残っていない。

 「一人で遅くまで仕事してたの? がんばるね」

 英明はその机に歩み寄った。

 「教頭先生……」

 あかりは顔を上げた。

 「なに、どうしたの? 何か悩みでも?」

 英明は隣の机の椅子を引いて座った。

 「あたし、来年の3月までしかここに居られないんですね」

 はあっと遠慮なくため息をついたあかりは、寂しそうな目で英明を見た。

 「いきなりどうしたの?」

 「初任は三年で転勤、なんて誰が決めたんでしょうね」

 あかりはまたため息をついた。

 「この学校から離れたくないってこと? そんなに情が移ったんだ、生徒たちに」

 「まあ、順調に一年の時から受け持っている生徒たちですから、可愛いと言えば可愛いんですけど」

 「そういうことじゃないの?」

 「だって、あたしと同時にここを出て行くわけでしょ? あたしがまだここに居たいっていう理由は別にあるんです」

 

 あかりはこの三年間で授業力もクラス運営のやり方も随分上達した。同じ数学教師である英明はこの女性新米教師が一人前の教師としてやっていけるように腐心していた。授業の研究会に備えていろんな助言もしたし、道徳の授業に役立つような資料も準備してやった。

 

 「教頭先生には本当にいろいろとお世話になってます」

 「何だよ、またいきなり」

 少し上目遣いに、あかりは向かい合っている教頭英明の目を黙ったままじっと見つめた。

 英明は少し動揺して身を引いた。

 「さあ、もう遅いからお帰り。バス停まで送ってあげるよ」

 英明が椅子を立った時、あかりはその腕をぎゅっと掴んだ。

 えっ? と驚いてあかりを見下ろした英明は、あかりの瞳が潤んで、今にも涙がこぼれそうになっているのに気づいた。

 「秀島さん、ど、どうしたの? 何か辛いことが?」

 あかりは英明の目をじっと見つめた。

 「あたし、増岡先生のことが好きなんです」

 「ええっ?!」

 「去年ぐらいからずっと気になってました」

 「そ、それって……」

 あかりはうつむいて、蚊の鳴くような声で言った。

 「だ、抱いて欲しい……」

 英明は真っ赤になって早口で言った。

 「と、とにかく送るから、早く荷物を準備して、」そこまで言った時、あかりは立ち上がって英明に抱きつき、強引に唇を重ねてきた。

 英明は最高に焦ってすぐにあかりの身体を引き離した。

 

 昂奮状態のあかりをバスに無理矢理乗せた後、英明は学校に戻って駐車場に駐めていた自分の車の横で大きく深呼吸をして頭をガリガリと掻いた。

 「まいったな……」

 いつもより早い時間だった。

 「いいか、このまま今日は早く帰ろう」

 そう独りごちて英明は車に乗り込み、エンジンを始動させた。

 

 英明の勤める学校は隣接したS市にある。学校を出ていつものハイウェイに乗り、20分ばかり車を走らせた所の交差点で、目の前の信号が赤に変わったので英明はブレーキをゆっくりと踏み込んで車を停めた。その界隈は民家も少なく、畑が広がる少し寂しげな所だったが、その交差点付近は巷で『ピンクエリア』とは呼ばれ、これ見よがしに数軒のラブホテルが派手なネオンサインの看板とともに立ち並んでいた。

 その一軒のホテルの真ん中あたりのガレージから一台の軽ワゴン車が出て来るのを、英明は興味なさげな目で見やった。

 

 「えっ?」

 小さく叫んで英明は目を凝らした。

 パールレッドの車体のその車の後部座席に、女が一人座っていた。サングラスを掛け、見覚えのある薄いピンクのタートルネックのセーターを身につけている。運転席の窓には濃いスモークのフィルムが貼られていて誰が運転しているのか特定はできなかったが、その人物が誰なのかは英明には解っていた。

 その車が交差点の脇道に出てきた時、丁度信号が変わったので、英明は慌てたように車を急発進させた。

 

 もやもやした気持ちで自宅近くまで車を走らせた英明は、自宅の玄関からは見えない路上に車を駐め、隣の家の塀に隠れて様子を窺った。

 間もなくさきの軽自動車がやって来て玄関前で停まると、後部座席に座っていた美穂がドアを開け、人目を気にするようにあたりを見回しながら運転席から顔を出した誠也に何か話しかけてその手を握り、最後ににっこりと笑いかけて玄関に入っていった。

 英明は再び車に乗り込んで、しばらくじっとしていた。普段は10時頃に帰宅する毎日だったが、今日は早い時刻に学校を出たこともあって、まだ9時を少し過ぎた時刻だった。美穂に気づかれないようにいつも通りを装うことにした英明は、そのまま車で過ごし、10時前になって自宅のガレージに車を入れた。

 

 その夜、英明は寝室のベッドでなかなか寝付かれなかった。すぐ隣で美穂が小さな寝息をたてている。

 「(美穂が誠也と……)」

 玄関前で美穂が車を降りる時の様子からして、それが初めてのことではないのは明白だった。運転席から顔を出した誠也は美穂の手を握り、お互いが目と目を見つめ合って穏やかに微笑みながら何か言葉を交わしていた。

 「(いつからだろう……)」

 

 思い当たる記憶はほとんどなかった。美穂はこうして毎晩自分の横で眠っている。家事も手を抜かない、やりくりもちゃんとやっているし、真琴への接し方も世の中の母親のレベルより上だと思っている。自分に対しても独身の時から変わらない優しさと思いやりを保っている。人前では自分を立て、美穂自身は決して出しゃばらない。

 最高の妻ではないか。

 だが、知ってしまった。その『良妻』の秘密を……。しかも相手は自分の甥だ。毎週娘の真琴の家庭教師として家に来ている誠也だ。

 「(あいつが家庭教師に来るようになってからだろうか……)」

 英明の心の中にふつふつと熱く濁った感情が湧き上がってきた。

 

 

 英明は翌週の月曜日、朝の内に秀島あかりにメールを送った。放課後、戸締まりをしに行く時に数学科の教材室で待っていてくれ、と。

 毎週月曜日は県教育委員会からの通達で、部活動を全面休止にすることになっていた。そしてできるだけ定時で退勤するよう職員には伝えていた。英明の教頭としての人望の厚さも手伝って、それを職場の誰もが守ってくれていた。だから月曜日は教頭の英明もいつもより早く帰ることができるありがたい日なのだった。

 生徒たちが下校した後、職員はいつもより早く仕事を切り上げて三々五々帰宅していった。そして6時頃に戸締まりをするため職員室を出た英明は、あかりと約束した通り、数学教材室に足を向けた。

 

 室内の机に向かって、あかりは二年生の数学の教科書を広げていた。

 「秀島さん」

 あかりは焦ったように立ち上がり、何も言わずに英明に抱きついた。

 「今日は……君の気持ちに応えたい」

 英明はごくりと唾を飲み込んでようやくそう言った。

 

 英明は後部座席にあかりを乗せて、『ピンクエリア』に車を向けた。

 そしてその一つ手前の交差点を過ぎたあたりで車を路肩に駐めた。

 「本当にいいのかい? 秀島さん」

 「ありがとうございます、先生、嬉しいです」

 あかりは胸の前で指を組み、うっとりとした表情で英明を見つめた。

 

 ホテルの客室に入った英明とあかりは、緊張したように上着を脱いだ。

 「先にシャワー、どうぞ」

 英明が言った。

 あかりはこくんとうなずいてバスルームに入った。

 シャワーの音がしている間、英明は少したばこ臭いソファに何もせずに腰掛けていた。やがてあかりがローブ姿でバスルームから出て来ると、英明は立ち上がり、決心したようにネクタイに手を掛けた。

 「先生って冷静でいらっしゃるんですね?」

 「え? どうして?」

 ネクタイをほどきかけた手を止めて、英明は訊いた。

 あかりはうつむいて小さな声で言った。

 「あたし、学校で押し倒されるって覚悟してました」

 「そんな乱暴なことしないよ」英明は苦笑した。

 「よくあるじゃないですか、職場で我慢できなくなった男の人がその場で……」

 「それはAVの世界だろ?」

 「先生はちゃんとこういう所に連れてきて下さるから、やっぱり紳士的な方なんだなあ、って、あたしちょっと感動してるんです」

 英明は困ったように頭を掻いてシャツのボタンを外した。

 

 大きなベッドであかりと英明は全裸で抱き合っていた。

 ああ、と甘いため息をついたあかりは、仰向けにした英明にのしかかり、その中心にあるものを両手で包み込んだ。

 「あ、秀島さん……」

 「お願い、あかりって呼んで……」

 あかりはそう小さな声で言うと、手で握ったそれを口に咥え込んだ。

 あっと小さな叫び声を上げて英明は思わず顔を上げた。

 濃厚とも言えるようなあかりの舌使いにもかかわらず、英明のものはなかなか硬くはならなかった。彼にとってその行為は性的な気持ち良さを覚えるものではなく、普段隠されている場所を舐められる恥ずかしさとぬるぬるとした違和感を伴ったどちらかと言うと嫌悪感を感じるものだった。

 長い時間そうしてもらうことが申し訳なくて、英明はあかりの口をそこから離させると、枕元に置いてあったプラスチックの包みを手に取り、あかりに背を向け膝立ちになってそれを自分のものに被せ始めた。いつものようにそれには長い時間が必要だった。

 あかりはそのまま英明の背後で仰向けになり、ケットを首までかぶって待っていた。

 

 やがて振り向いた英明はケットをそっとめくり、あかりに覆い被さってゆっくりとキスをした。そしてそのまま柔らかな白い身体を上から下に口を滑らせていった。さすがに美穂と違ってつややかですべすべとした肌合いだった。その若さを目の当たりにした英明は、普通はこんな状況だったら男は大興奮するのだろうな、と冷静に考えていた。

 あかりの両脚を抱えて、英明は舌でその秘部を舐めた。小さな粒や潤った谷間を丁寧に舐め、唇で挟み込んだりした。そのとろとろとした粘膜が舌に絡みつく感触を英明はあまり好きではなかった。本やネットからの知識でこういう行為の時にオトコが女性に対してすることはいろいろと知っていたが、自身がそれに興奮することはもちろん興味を持つことさえほとんどなかった。しなくて済むことならこれからずっとでもやりたくないと思っていた。

 しかしあかりは全身で身もだえしながら息を荒くしていた。すでに彼女の身体には汗が光っていた。英明はその様子を観察しながら、この子は僕の気の乗らないこんな行為でも興奮するのか、よほど身体が求めていたんだな、と思い、複雑な気分だった。そしてこの後自分も無理な演技でそれに応えなければならないのかと思うと気が重かった。

 挿入には時間が掛かったが、あかりのその場所が異様な程潤っていたお陰で、どうにか二人は繋がり合うことができた。あかりは少し涙ぐんで上になった英明を見つめた。英明はそのままキスをして、腰を動かし始めた。

 初めの内はああ、と喘ぎ声を上げながら気持ち良さそうに身をよじらせていたあかりだったが、英明が長い時間ただ機械的に動き続けるうちに、少しずつ身体の火照りが冷めていくのを感じているようでもあった。

 

 そして全身に汗をかき、唐突にううっ、と呻いて英明は腰の動きを止めた。

 はあはあと大きく胸を上下させて、英明はあかりに身を預けた。あかりはそっと両手を英明の背中に回した。

 英明の息が落ち着くのを待って、あかりが彼の耳元で囁いた。

 「ありがとうございます、教頭先生……」

 そして二人はゆっくりとキスをした。

 

 

 朝から雲が空一面を覆い、時折雪のちらつく二月のとある昼下がり。

 美穂と誠也はホテルの一室で熱く火照った身体を重ね合っていた。

 ベッドが激しく軋む。荒い息づかいが部屋の空気をかき乱す。

 「ああ、あたしもうイってる! 誠也も来て! 一緒にイって!」

 「美穂、美穂っ!」

 俯せになった美穂の身体を背中から抱きしめ、激しく腰を上下させていた誠也はすぐにその全身を震わせながら顎を上げてうめき声を上げた。

 どくっ! どくどくっ!

 いつもの誠也の熱い想いが強烈な勢いで美穂の体内に流れ込み、彼女の身体をとろけさせた。

 「ああーっ! 誠也! 熱い! 中が熱い!」

 「美穂っ! ぐううーっ!」

 二人は一つになったまま同じように身体をびくんびくんと激しく何度も波打たせた。

 

 誠也、誠也、と連呼しながら、美穂はその逞しい身体を抱きしめてしくしくと泣いていた。

 「ど、どうしたの? 美穂」

 誠也はおろおろしながら、まだピンク色に上気したままの柔らかな美穂の身体を抱き返した腕に力を込めた。

 「胸が痛い、締め付けられる……」

 「だ、大丈夫?」誠也が心配そうに言って、小さな子供を慰めるようにその髪を何度も撫でた。

 「好きなの、誠也、好きで好きで涙が止まらなくなるの」

 誠也はしばらくの間、黙ってその身体を抱きしめていた。触れ合った美穂の心臓の激しい動きが誠也の胸に届いていた。

 

 その腕の中でずっとその身体を震わせていた美穂は、やがて落ち着きを取り戻し、大きなため息をついて誠也に顔を向けた。

 「ごめんね、びっくりさせちゃって……」

 美穂が申し訳なさそうに言った。

 「どうしたの? 急に泣き出しちゃって……」

 「泣きたくなるほど人を好きになること、あるのね……」美穂は照れたように目を拭った。「歌の世界だけの話だって思ってた。男の人ってそんな風にはならないの?」

 誠也は恥ずかしげに美穂を横目で見た。

 「なるよ。っていうか美穂にだけそうなる」

 「ほんとに?」

 「俺さ、君と初めて抱き合ったとき、これって単に身体が欲求不満になってて、だれかとヤりたいって思ってただけかも、って一瞬思ったんだ。勢い余って君を抱いてしまったけど、それは美穂でなくてもそうなってたかも、って」

 「……うん」

 「でもね、その夜、家に帰ってベッドに横になってもずっと眠れなくて……」

 「何か考えてたの?」

 「あの頃は妻のエリと一緒に寝てたんだけど、その、すぐ隣にいる人間がますます遠くに感じられて、何の感情も持てないようになってた。まるで人形と一緒に寝てる感じ」

 「そうなの……」

 「それからは、ベッドに横になると時々、寝付く前に胸がぎゅって締め付けられるように痛んでさ、君との初めての夜を思い出すんだ」

 「ほんとに?」

 「ほんとさ。そんなときにやっぱり少し涙ぐむことがあるね。自分で女々しいと思いながらも」

 誠也は頬を染めて数回瞬きをした。

 「俺、美穂を忘れたことはない。あの日から一度も」

 「良かった、身体だけが目当てじゃなくて」

 「俺のこと、そんな風に思ってたの?」

 「ちょっとだけ。あなたまだ若い男子だったから」美穂はいたずらっぽく笑った。「でも、あたしはもっと前からあなたのことを思っては胸がきゅうってなってたよ。あなたと初めて食事をして、そのあと会えなくなってからずっと誠也のことを考えてた。」

 「そうか……」誠也は切なそうに眉尻を下げた。「俺、そんな風に美穂に想われてること、すごく幸せに感じる」

 誠也はチュッという音を立てて美穂の唇を吸った。「照れくさくて君と出会うまで誰にも言えなかったことが美穂には言える。好き。美穂が大好きだ」

 

 美穂は幸せそうにため息をついた。

 「あなたに抱かれるときにあたしが大好きな瞬間はね、」美穂は恥ずかしげに上目遣いで誠也の顔を見た。「裸になって抱かれたとき、キスしてるとき、誠也があたしの身体を舐めてるとき、中に入ってくるとき、一生懸命動くとき、中に熱いのを注いでくれるとき、そしてその後抱いてくれてるとき」

 誠也は呆れたように言った。「それって最初から最後までずっとじゃん」

 「ずっと天国にいるの」

 美穂はそう言ってぎゅっと誠也の身体を抱いた。

 「あたしの身体、もう誠也仕様になっちゃってる」

 誠也はひどく嬉しそうな顔をした。

 「あなたとこういう関係になる前、英明さんともまだつき合ってない頃にはね、男の人に抱かれることがこんなに気持ちいいことだってわかってなかった」

 「そう?」

 「なんか、向こうがエッチしたがってるから、それに相手してただけ、って感じかな」

 「若い頃はそんなもんじゃないの?」

 美穂は誠也を横目で睨んだ。

 「あなたに初めて抱かれた時もまだ若い頃だったんですけど」

 「そ、そうか」誠也は少し引きつった笑いを浮かべた。

 「あたし、それまであんまり経験はなかったんだ。物足りなかったでしょ? 初めてのあの夜」

 「そんなことないよ。美穂とのあの初体験はすごく気持ち良くて大満足だったよ」

 「あたしはあの夜に生まれて初めて全身が反応するような体験ができたの。熱くて、激しくて、敏感になって、吹き飛ばされそうになるほど感じて……泣きたくなるぐらい大好きになるの」

 「美穂……」

 誠也は美穂の身体を包み込むように抱いた。

 「今でもそう。もう誠也じゃないとだめみたい……」

 

 「でも、」誠也が天井を見つめながら言った。「俺、叔父さんにすごく、何て言うか、こう不義理なことしてるよね、今さらだけど……」

 美穂は誠也の頬を撫でながら言った。

 「誠也はそんなこと思わなくていいよ。あたしだけが罪の意識を持っているだけでいい。あなたはあたしを英明さんから奪ってるわけじゃないもの」

 誠也は小さなため息をついて、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 「やっぱり罪の意識を持っているんだね、美穂は」

 美穂はうなずいた。

 「でもあたしにとっては、あなたと英明さんはコインの裏表」

 「え? どういうこと?」

 「英明さんが表であなたが裏。同じじゃないその二つがちゃんと揃ってなければ偽物なの」

 「偽物?」

 「表だけでも裏だけでもだめなの。あたしにはその両方が一緒になってなきゃだめなの」

 誠也は美穂の目を見つめていた。

 「誰にも、もちろん英明さんにもこの気持ちは解ってもらえないと思う。でもあたしには英明さんも誠也も必要。どっちかがいなくなったらあたしじゃなくなるの」美穂は眉尻を下げて誠也を見た。「ごめんね、あなたにも意味がわからないでしょ?」

 「俺は美穂にそう言ってもらえてすごく嬉しいんだけど、やっぱり君は叔父さんの妻だし、この関係があの人に知れたら、やっぱりとんでもないことになるよね」

 美穂は少し考えてから小さな声で言った。

 「あたし、時々思うの。英明さん、こういう風にあたしの身体を慰めてくれる別の人がいればいいのに、って思ってるんじゃないかって」

 「ええ? 何それ」誠也は驚いたように言った。「そ、それって君の不倫を望んでるってこと?」

 「あの人、セックスが苦痛なの。でもあたしの身体を気持ち良くすることは自分の努めだって思ってるの。そんな英明さんを見てると、なんか可哀想なんだ。たまに夜、あたしを求めてくるけど、それが義務感だってわかるんだよ。そんな時あたしあの人に言うの。無理しなくてもいいから、って」

 しばらく天井を見ながら考えていた誠也は、上を向いたまま言った。

 「何かで読んだことがある。『非性愛』っていうタイプの人がいるって」

 「非性愛?」

 「愛情はあって、好きという気持ちを相手に抱きはするけどセックスには全く興味も関心も持てない。似た言葉に『無性愛』ってのがあるけど、そっちはそもそも人を愛せない、愛情みたいなものを持てないこと。だからもちろんセックスも無理」

 「ふうん……」

 「どっちも同性愛とか両性愛とかと同じセクシャル・マイノリティの範疇なんだって」

 「そうなの……初めて聞いた」

 「叔父さんがそれを何とかしたいって思ってるのなら、治療をすることも考えた方がいいんじゃない?」

 「どうかな、でもセクシャル・マイノリティの一つなら、それはあの人の特性であり個性ってことでしょ? 同性愛だって治療で無理矢理治すなんて筋違いなんだから、そのまま本人も周りも受け入れるべきなんじゃないの?」

 「叔父さんはなんて?」

 「セックスに関してはあたしに申し訳ないと思ってるのは確か。でも彼自身それを克服しようと考えてるとは思えない。でもあたしもそれはそれでいいと思ってる」

 「そうなんだ……」

 「すずかけの木にリンゴを実らせることはできないでしょ?」

 「確かに……」

 「あたし自身、あの人に身体を満足させて欲しい、なんてもう思ってない。だからあの人もそういうことで悩まなくてもいいようにしてあげたいよ」

 そして美穂は続けた。「誠也とあたしにとってはすごく都合のいい考え方かもしれないけどね……」

 美穂は、ふう、とため息をついた。

 「でも、」美穂は顔を上げた。「前は無理してでも夜にあたしを抱いてくれてた英明さんが、去年の秋ぐらいから何もしなくなったの」

 「え?」

 「挿入はもう無理だってあたしもわかってたから、彼とは下着姿で抱き合ってキスしたり、あたしの身体を撫でてくれたりしてたんだけど、ここ数か月、そういうこともしてくれない」

 「そうなんだ……やっぱり叔父さん、そういう行為も無理なのかな……」

 「あなたとこういう時間を過ごしていながら、とっても身勝手な言い方だけど、あたしちょっと寂しいんだ」

 「わかるよ」誠也は言って美穂の身体をそっと抱いた。「美穂も叔父さんとはスキンシップをとりたいよね。夫婦なんだから」

 美穂は目を閉じた。

 「俺、叔父さんと君の関係が冷めてしまうのはいやだ。夫婦としてずっといたわり合って、二人のやり方で愛し合ってて欲しいよ」

 誠也は美穂の髪をそっと撫でた。

 「ありがとう、誠也」美穂は寂しげに笑った。「英明さんとあなたと一緒に幸せに暮らすなんて、やっぱり夢の夢だよね……」

 

 

 その後も英明はあかりとの関係を続けた。三週間に一度程、決まって月曜日に、今日は遅くなる、と英明は美穂にメールを送ってからいつもより学校を早く閉め、あかりを連れてホテルに通っていた。しかし、元々セックスに対しての興味がほとんど持てず、その行為によって気持ち良さを感じることができない彼は、あかりの気持ちに応えて逢瀬を重ねてはいたが、元々英明自身があかりを思う気持ちはそれほど熱いものではなかったわけで、いきおいホテルでの行為もあかりを満足させることなどできるはずもなく、彼女の方も英明が無理して自分とつき合っているということに薄々気づき始めていた。

 あかり自身、恋する気持ちが肌を合わせることとイコールではないと頭ではわかっていたが、身体を満足させて欲しいという欲求は始めから持っていた。それが英明では満たされないことがはっきりしてくると、仕事中の飲み掛けのコーヒーのように、気づいた時にはあかりの彼への思いは冷めてしまっていた。

 

 そして3月の学年末。あかりは異動を機会に英明との関係を終わらせようと決めた。もう思い残すことはなかった。皮肉なことに、あれほど熱烈だった英明への思いがすっかり冷めてしまったことで、この学校を去る名残惜しさが潮が引くように遠ざかっていったとも言えるのだった。

 送別会の席でのあかりは、何かに解放されように終始晴れやかな表情だった。

 

 「いろいろとありがとうございました。新しい学校で心機一転がんばります」

 

 英明は動揺した。好きだったわけでもないのに、そのあかりからの決別の言葉にひどく気持ちが落ちることに自分自身で焦り、少しばかりの怒りにも似た感情さえ抱いていた。

 元々、妻美穂の不貞への復讐のつもりであかりの思いを利用し、彼女を抱いていたが、気づいた時には自分があかりに愛想を尽かされ、男としての魅力が欠如していることをさらけ出し、結果美穂への復讐どころか、自分自身を貶める結果に終わってしまった。幾重にも重なった敗北感が英明の胸を締め付け、同時に自己嫌悪が頭の中を占領した。

 しかし、それと同時に英明は美穂が二つの顔を使い分けていることを不憫に感じ始めた。そしてそれは彼女の自分への思いやりなのかもしれないと考え始めた。美穂は今でも、今までもずっと自分の妻としての役割を十分に果たしてくれている。唯一自分には実現できない彼女の身体を満足させるという役割を代わりに誠也が担ってくれているということは、実は正当で無理からぬことなのではないか、自分にとっても好都合で、逆に誠也に感謝すべきことなのではないかと思い始めたのだった。

 すると、突然英明の心に、美穂が自分から離れていくことを恐れる気持ちが湧き上がってきた。誠也に身体ばかりか心まで奪われてしまい、秀島あかりのように、美穂の自分への気持ちが冷めていくのではないか、という恐怖感がじわじわと彼の心の中に広がっていく。

 美穂の気持ち、そして自分の立ち位置を確かめたい。英明は心に決めた。