職場の送別会のあった次の水曜日、近くのスーパーでリンゴを一袋買って帰った英明は、夜、娘の真琴が二階で誠也と勉強している時間に茶を飲みながら美穂と食卓で向かい合っていた。

 「なんでリンゴなんか買ってきたの? 珍しいね」

 美穂が言って自分の湯飲みを持ち上げた。

 「君も毎週買ってきてるじゃないか。決まって水曜日に」

 英明は言った。そして袋から一個のリンゴを取り出し、両手のひらで包み込むようにした。

 「リンゴは誠也の大好物。ヤツは小さい頃から果物はリンゴしか食べなかったんだ。君も知ってるんじゃないのか?」

 意味深長な英明のその言葉に、美穂は胸騒ぎを覚え始めた。

 

 その時真琴との勉強を終えた誠也が階段を降りてくるスリッパの音が聞こえた。

 「いつもありがとう、誠也」

 「とんでもない。真琴ちゃんは出来が良いから俺、とっても楽だしやり甲斐もあります」

 こっちに来て座りな、と英明が言って、美穂の横の椅子に誠也を促した。

 誠也は躊躇わずそこに腰を下ろした。

 「お茶でいい? それともコーヒー淹れてあげようか?」

 「大丈夫です、お茶をいただきます」

 美穂が客用の湯飲みを用意するために椅子を立つと、誠也はテーブルに置かれたリンゴに目を向けた。

 それに気づいた英明が言った。

 「昔から好きだったな、誠也」

 「叔父さんにも時々買ってきてもらってましたね、小さい頃」

 誠也はにっこり笑った。

 「リンゴって年中出回ってるな。そう言えば」英明はそのリンゴを手に取った。「収穫時期は秋なんだろ?」

 「種類にもよりますけど、リンゴって長期保存が利くんですよ。CA貯蔵法って言って、リンゴの呼吸を制御して鮮度を保つっていう方法で」

 「へえ、よく知ってるな、誠也。さすがだな」

 「このジョナゴールドもほんとだったら十一月までが旬」

 「品種までわかるの? 誠也君」

 美穂が急須から湯飲みに茶を注ぎながら訊いた。

 誠也は肩をすくめた。

 「もともと好きだったからいろいろ調べもしたし、青果の卸しやってた時にもいろいろ勉強させてもらったんです」誠也は笑った。「『人を成長させない経験は無い』ってことですね」

 「言うことが教師みたいだな」

 「予備校の教師ですけどね」

 誠也はまた笑って前に置かれた湯飲みを手に取った。

 「あちちっ」

 一口茶を飲んだ誠也は慌てて湯飲みをテーブルに戻し、小さく舌を出して右手でひらひらと扇いだ。

 「そんなに熱かった?」美穂がおかしそうに言った。「少し冷まして淹れたつもりだったんだけど」

 「俺、猫舌だってこと、知ってるでしょ? 美穂さん」

 誠也は困ったように眉尻を下げた。

 「だったらすぐに口に持って行かなくてもいいだろ?」

 英明が呆れて言った。

 「そう言えばおまえ僕のことは『叔父さん』って呼ぶのに、美穂のことは『美穂さん』って呼ぶよな。なんで『叔母さん』じゃないんだ?」

 誠也ははっとして身を固くした。

 「ま、君たちは歳が近いからな。美穂も誠也に『叔母さん』なんて呼ばれるのには抵抗があるか」

 英明は小さなため息をつき、美穂もお座りよ、と言って妻を椅子に座らせると、いつになく真剣な表情で二人の顔を交互に見た。そして低い声で言った。

 「何も言わずに僕の話を聞いてくれないか」

 美穂は緊張したように顔をこわばらせた。横に座った誠也も額にうっすらと汗をかいてうつむいたままだ。

 

 「僕は君たち二人の本当の関係を知ってる」

 

 美穂と誠也は青ざめた。誠也がごくりと唾を飲み込む音がした。

 

 「僕は、」英明は言いかけて黙り、無表情のまま再び口を開いた。「美穂、君と誠也が深い男女の関係であるとしても、僕は君を責めることはできない。主婦としての務めもちゃんとこなし、やりくりも堅実で娘の真琴への愛情も十分すぎる程だ。君は僕の理想の妻であり娘の良き母親だ。僕にとってどこに出しても恥ずかしくない最善のパートナーだ」

 美穂はうつむいたまま膝の上に置いた拳を握りしめていた。全身が汗ばみ、思わず小さく身震いした。

「それなのに僕は君の身体を癒やすことができない。夜の営みに関しては全く不能な夫であることは認めている。だから君も誠也にそれを求めたんだね。誠也とはいつから?」

 

 美穂はうつむいたまま震える小さな声で答えた。

 「あ、あなたと結婚する数か月前に働き始めたスーパーで……初めて会ったの」

 「誠也はその時、確か大学生だったよな?」

 英明は誠也に顔を向け直した。

 罪状を突きつけられた容疑者のように唇を震わせながら誠也は言った。「は、はい。その時青果の卸しのバイトをしていて……」

 「なるほど。で、お互いに惹かれ合っていったってわけだ。ずいぶん早くに知り合ってたんだね」

 英明は湯飲みを手を取り、茶を一口飲んだ。

 「真琴はもう寝たのかな?」

 英明が階段の方をちらりと見て言った。

 「大丈夫。あの子は勉強の後、めったに降りてこない……」

 美穂が申し訳なさそうな顔で小さくかすれた声でそう言うと、英明はふっと表情を和らげて、美穂に顔を向け直し、小さく数回うなずいた。

 「二人とも、もっとリラックスして聞いてくれないか? そんなに緊張されると話しづらいよ」

 それでも美穂と誠也は身を固くしたままだった。

 

 「僕には美穂に謝らなきゃいけないことと感謝しなきゃいけないことがあるんだ」

 美穂は顔を上げた。

 「僕も不倫してしまった」

 誠也も思わず顔を上げた。

 「去年の秋、職場の同僚に言い寄られて、しばらく関係を続けたんだ」

 美穂は目を大きく見開き、口を半開きにして英明の顔を見た。

 「彼女の方が僕に好意を持っていた」英明はテーブルの上で指を組んだ。「その子から告白されてキスされた日、僕は動揺していつもより早く学校を出た。その時に誠也の車がラブホテルから出て来るのを偶然目撃した。その後部座席に美穂が座っているのも見てしまった」

 美穂は辛そうな顔で唇を噛んだ。

 「その時、僕は君たちに復讐してやろうという気持ちが芽生えた。だから好きでもないその部下と関係を持とうと決心した」

 「ご、ごめんなさい! 叔父さん、俺、俺、」「誠也、最後まで聞いてくれ」

 英明はとっさに叫んだ誠也の言葉を遮った。

 「でもだめだった。美穂には解るよね? その彼女も僕といわゆる大人の男女の関係になることを望んでいて、僕はそれに応える努力をしたが、やっぱり無理だった。一緒にホテルに入っても、抱き合いはしたが射精したことは一度もない。彼女の手前、上り詰めたフリはしたけどね。今まではっきり言ったことはなかったけど、僕は射精で快感を覚えるどころか苦痛さえ感じるんだ。自分の精液には嫌悪感を持ってるほどだ。だからできればセックスなんてやりたくないと思っている」

 「英明さん……」美穂がひどく切なそうな顔をした。

 「若い頃から僕はそういうことに全く興味が持てなかった。友だちが猥談で盛り上がっても、表面上話を合わせていただけ。何人かの女性と交際したけど、身体を重ね合ったのはほんの数回。その行為でもうまくいったことは一度もない。無理もないよね、僕は見よう見まねで全然乗り気でないセックスに挑んでいたわけだから」

 

 英明は自嘲気味に小さく笑うと、テーブルを見つめながら話を続けた。

 「僕は最初、その同僚のことは特段好きでもなかった。彼女が求めてくるのに応えていただけだ。それも君への復讐という吐き気を催すような下心満載で。だが、果たして彼女に愛想を尽かされ、こないだの送別会であっさり別れを告げられた時は、なぜかものすごく悲しかった。情が移っていたのかもしれない。そこで僕は気づいたんだ、これは復讐でもなんでもなくて、僕の独り相撲だったってことにね。部下の好意を利用して、自分の妻への仕返しを企てたが、結果的に自分の男としての魅力と能力のなさを改めて思い知らされ、同時に妻である君を裏切った」

 英明はテーブルに両手を突いて頭を下げた。

 「済まない、美穂、不甲斐ない僕を許してくれ」

 美穂は慌てた。「あ、あたしの方こそ、英明さんを裏切り続けてた」

 そして今にも泣き出しそうな顔をうつむかせた。「……今さら許してもらえないかもしれないけど……」

 「いや、」英明は顔を上げた。「君も誠也も僕に謝る必要はない」