Twin's Story 外伝 "Hot Chocolate Time" 第3集 第2作

忘れ得ぬ夢~浅葱色の恋物語~

6.罪作りな優しさ


「切ないな……切な過ぎや……」ケネスが瞳を赤くして天井を見上げ何度も瞬きをした。

 マユミがぽつりと言った。「辛かったんですね、神村さん」

「わたしかて辛かったわ……。もう完全に情が移っとった。あっちゃんの予言通り……」

 ケネスが指で目元を拭いながら言った。「よう振り切ったな、おかあちゃん」

「あの人の腕から抜け出すエネルギーは尋常やなかったで。そやけど、アルバートが手、引いてくれた」

 シヅ子は目を数回しばたたかせた。


「しっかし、その木村っちゅう先輩、めっちゃやな性格やってんな」

 ケネスが眉間に皺を寄せて言った。

「神村さんって、」マユミが躊躇いがちに口を開いた。「二股がけ、してらっしゃった、ってことですか?」

 シヅ子は思わず小さく噴き出した。「ちゃうちゃう。木村先輩と神村さんの間には何もあれへんかった。あれは先輩の狂言。」

「狂言?」

「そや。先輩な、あっちゃんに頼まれてたらしいねん。不倫してるわたしを何とかしたって、言うて。同じクラスの担当やったし」

「それにしても、わざわざおかあちゃんを揺さぶるようなこと言わんでもええやんなあ」

「先輩なりの思いやりだったんや。わたしの心をかき乱して、神村さんへの不信感を募らして、関係を切ろう思てたんやて」

「聞いたんか? 本当のこと」

「ああ、聞いたで、直接。わたしがあの施設での最後の仕事の日、夕方スタッフルームに連れて行かれて二人きりで話した」

「そうか……」

「あなたを騙してごめんなさい、言うて頭下げてくれはった。そん時はわたしももう神村さんとの関係は解消しとったから、木村先輩もそれを聞いて安心してはったわ」


「けど、その最後の晩はおかあちゃん複雑な気持ちやったんちゃう? 神村さんがその木村先輩とおかあちゃんと二股がけしとる思てたんやろ?」

 シヅ子は小さく頷いた。「醜い女の嫉妬心やな……。自分も人の男を泥棒しとるくせに、その男が他の女を抱いた言われたら、許せへんって逆上しとんのやからな。わたしあの夜を最後にしよう、思てたくせに、抱かれとる間は、この人を誰にも渡さへん、木村先輩にも、奥さんにも、って強烈に思とった。特に木村先輩には憎しみ以外の感情を持たれへんほどやった。殺してやりたい、思てたほどや。その上あの人にもえらい乱暴してしもて……。あの人にとっても最後の夜やったのに……」


 そしてシヅ子は小さなため息をついた。「もうどろどろや……どろどろのぐちゃぐちゃやで……」



 「事の発端、っちゅうか、」ケネスはテーブルのチョコレートに手を伸ばした。「そもそも秋の飲み会の後、神村さんにキスされた時、どないな気持ちやってん」ケネスが言った。

 シヅ子は遠い目をして静かに口を開いた。「そやな……。わたしも宴会で少し酔うてたこともあってな、拒絶する気持ちはあんまりなかったわ」

「つき合うてた親父に申し訳ない、思たりせえへんかったん?」

「不思議なことにな、アルバートのことはその時思い出せへんかってん」

 ケネスは不服そうな顔をした。「何でやろな」

「そん時の寂しさは、もちろんアルバートに会えへんのが最大の原因やってんけど、あの人にキスの前に肩を抱かれた時は単純に、っちゅうか純粋に寂しかった、それを受け止めてくれはる人や、思てたんや」


 ケネスは躊躇いながら言った。「おかあちゃんは神村さんのこと、正直どない思てたんや?」

「困ったことにどんどん好きになっていったわ。敦子が恐れてた通り。けど若いアルバートに対してとは違う気持ちやったことは間違いあれへん」

「違う気持ち?」

「相手は大人やろ? やっぱ思いっきり甘えられるっちゅうか、気持ちも大きく抱き留めてくれる、っちゅうか……」

「なるほどな」

「そやけどわたしもそれが不倫やっちゅうことは認識しとった。初めてキスされた時も、こんなことしたらあかん、とは思てたんやで」

「抱かれとる時もそない思てたんか?」


「いや」シヅ子は言葉を切った。


「ほんまアルバートには申し訳ないんやけど、ベッドの上ではそないなこと考えたことなかった。もう身体があの人を強烈に求めててな、何も考えられんと夢中で燃え上がって気持ち良うなってた」

「そやったか」ケネスは残念そうにそう言って、カップを口に運んだ。「そんなもんなんやな……」


 シヅ子はうつむいた息子のケネスに目を向けた。「そやけど、最後の晩は違うとった」

 ケネスは顔を上げた。「どろどろのぐちゃぐちゃやったんやろ?」

「それは木村先輩のせいや。悪気はなかったんやろけど、更衣室であんな話されてから、わたしずっと正気ではいられんかった。先輩もわたしに恨まれるのん覚悟であないな心にもないこと言うたんやと思うで。わたしがみな悪いのに、結果的に先輩にいやな役押しつけてしもてた」

 シヅ子は軽く胸に手を当て、数回深呼吸をした。


「そやけどな、わたしも居酒屋で敦子に言われた時から、正直悩み始めたんや。もちろんあの人のこと、その時は前よりうんと好きになっとったけど、それまではどっちか言うと何も考えんと軽い気持ちであの人に誘われるままついて行っとったような気がすんねん。けどな、あの子に諫められてから、やっぱあかんことなんやな、相手のことも考えなあかんねんな、思い始めた。今さらな話やけどな」

「これで最後にしよう、決めて抱かれたんやろ? その晩」

 シヅ子は頷いた。「仕事辞めることは前の週から決心しとった。ほんでそない思たら、同時にアルバートに会いとうて会いとうてどうにもならん心理状態になってもた。大阪に帰る、思ただけで、やっぱアルバートやなければダメや、わたしにはアルバートしかおれへんのや、て強烈に思い始めた」

 ケネスは頬のこわばりを緩めた。「おかあちゃん、理性が戻ったっちゅうことやな」

 シヅ子は眉尻を下げ、申し訳なさそうな顔をして続けた。「そのくせ、あの人が木村さんと夜を過ごした、聞いて逆上しよるし、その上懲りもせんとまたあの人と夜を過ごしてしまいよる。ほんであの人に抱かれたら、もう燃え上がって、自分でもこの身体をどうしてええかわからんほどになっとった。……ほんま醜い女やったで」


 シヅ子はずっと空のままだった白いカップを手元に寄せた。ケネスは何も言わずにデキャンタを手に取り、そのカップにコーヒーを注ぎ入れた。

 おおきに、と言ってシヅ子は口を開いた。

「自分のこと差し置いてこないなこと言うのも何やけど、」

「ん? どないしたん」

「あの人、卑怯やわ」

「なんやの、卑怯って」ケネスは眉を寄せた。

「優しすぎや。特にわたしに対して」

「話聞いてるとわかるわ。それ」

「あの人にはイヤな所がないねん。完璧やねん」

「それはおかあちゃんが神村さんに恋愛感情持ってたからやろ?」

「いや、一般的に言うてもそうやった。あの人は舗道を並んで歩く時、絶対車道側にいてたし、食事の時もわたしが座るまで絶対自分は腰を下ろさんかった」


「紳士的な人だったんですね」マユミが言った。

「紳士的で、理知的で、そやけど柔らかでユーモアもあって人当たりがええねん」

「完璧か……」ケネスが言った。

「本の虫でな、暇さえあったら本広げてはったわ。ホテルに行った時も、わたしがシャワー浴びてる間、下着姿でベッドに腰掛けて食い入るように読んではった

「へえ」

 

「そやけど」シヅ子はケネスの顔に目を向けた。「今言うたあの人の特徴は、そのまんまアルバートやねん」

「え?」マユミは小さく声を上げた。

「そう言えばそうやな。親父も本好きやし、おかあちゃんを過剰に立てるわな、いつも」

「そやろ? アルバートが今までわたしの椅子引いてくれへんかったこと、一度もないで」

「確かに」ケネスはにっこりと笑った。

「神村さんとつき合うとった時には全然気づかへんかってんけどな、背の高さ、身体つき、ほんでにこって笑ろた時に下がる目尻。考えてみたらほんまによう似てたわ。それに……」

 シヅ子は一度言葉を切って、切なげな目でケネスを見た。

「あの人の抱き方が、アルバートにそっくりなんや……」

「抱き方?」

「行為の後、めっちゃ柔らかく抱いてくれるねん。黙ったまま、わたしの身体の火照りが収まるまでずっと」

「親父もそうなんか?」

 シヅ子は頷いた。「怖いぐらいに同じやった。あの優しい抱かれ方するとな、ほんま安心できるねん。いつまでもそうしていて欲しい、思うねん」

 マユミが躊躇いがちに言った。「……だからお義母さんは神村さんに惹かれてたのかもしれませんね」

「そうやな……あの人にはいつもアルバートの面影を重ねてたんかもしれへんな」

 

「最後に神村さんと抱き合うた時、おかあちゃんはどないな気持ちやってん。やっぱ切なかったか?」

「その晩は、わたしあの人が二股がけしとる、思て、めちゃめちゃ嫉妬に燃えてたんやけどな、一回抱き合うた後、話しとるうちに、ああ、木村先輩の言うたことは嘘やったんやな、って解ってもた」

「そうなん?」

「あの人の目はそんな目やなかった。本気でわたしだけを見ててくれてた。そやからわたし、こらえ切れんようになって、また求めてしもうたんや……あの人を……」

 

 シヅ子は静かにカップを持ち上げ、口に運んだ。

「それまでは、言うたら無心にあの人に抱かれてたんやけど、その時は違ごとった。アルバートに会いたい、っちゅう気持ちと、この人から離れとうない、っちゅう気持ちの板挟みでめっちゃ苦しかった。苦しゅうてまともに息もできへんかった。貪欲極まりない話やけど、アルバートと神村さん両方に対して最高に燃え上がっとった。神村さんに抱かれながらアルバートに欲情しとった。もうなにが何やらわからん。限界にきとったな」

 

 

「お義母さん、職場でお二人の噂が広がって、その、いじめとか嫌がらせとか受けたりしなかったんですか?」

「一度だけ、わたしの机の引き出しに、紙切れがほりこんであったことがあったな。『ふしだら女』って書いてあったわ」

「ほんまに?」

「いっつも神村さんの逢い引きのメモが入れられてた引き出しに入っとった」

「逢い引きのメモ?」

「次の土曜日の待ち合わせ場所と時刻が書かれたメモや」

「ケータイもメールもなかった時代やからな。確かに方法はそんなんしかあれへんわな。で、その紙切れには『ふしだら女』の他に何か書いてあったんか?」

「いや、それだけやった。たぶんそれ書いたんは隣の林田さんや」

「えっ?!」マユミは口を押さえた。

「隣同士やったから、彼女の字のクセをわたし、知っとった。そんな字やったし、それ以降またわたしと一緒に朝の茶汲みするのん、嫌がっとったからな。あからさまに」

「職場に居づらかったやろ、おかあちゃん」

「しゃあないわ。ふしだら女っちゅうんはほんまのことやし。そやけど、幸いなことに他にはなんもなかった。いや、不幸なことに、かもしれへんな」

「なんで不幸なんや?」

「周りのみなにもっとあくどい嫌がらせされたり、仲間はずれにされたりして、いたたまれんようになった方が諦めもつくやんか」

「そない簡単にいくんか?」ケネスは懐疑的な目をした。「恋愛に燃えあがった女は強い、言うやないか。そないなことされたら開き直って、かえって神村さんにしがみついて、二人して堕ちていってしもとったんちゃうか?」

 シヅ子は伏し目がちに言った。「……そうやな。そうかもしれへん。やっぱ幸いやったんかな」


「その封筒にはいくら入っとったんや?」ケネスが訊いた。

「5万円や」

「5万!」ケネスはびっくりして大声を上げた。

「神村さんが仰った通り、それで診察受けられたんですか? お義母さん」マユミが言った。

 シヅ子は首を横に振った。「そんなことせえへん。エッチの後お金もろたりしたら、まるで風俗嬢やないか。あの時は神村さんの勢いに負けてとりあえず受け取ったけど、ちゃんと返したで、そっくりそのまま」

「いつ?」

「わたしが年末に大阪に帰省して、年が明けて一旦向こうに戻って身辺整理した後、最後にバスに乗る直前、あっちゃんに頼んだ」

「直接手渡しはできませんね。確かに」

「そらそうや。あの人がすんなり受け取るわけあれへん」

 シヅ子はまたカップを持ち上げた。


「わたしがあっちで最後に話したんは敦子やった。いろいろ心配してくれて、支えてくれた親友やからな」

「神村さんとは?」

「形式的に他人行儀なあいさつだけやった。職場に最後の挨拶行った時な」

「ま、そんなとこやろな」

「もうなんか、公然のことになっとったみたいでな、わたしとあの人の関係。周りの目が冷とうて」

 ケネスは飲みかけたコーヒーのカップを口から離した。「ほんまに?」

「いや、被害妄想っちゅうか、わたしがそう思てただけかもしれへんねけど、やっぱ気持ち的にあの職場の中で二人だけで話し込む勇気なんかあれへんかったで」


 シヅ子はゆっくりと言った。「あの人とはそれっきりや」


 ケネスはコーヒーをすすった。「で、敦子さんとはどないな話、してん」

「わたし何度も謝った。心配してくれてたのに、ちょっとも言うこときかへんかったし。でもな、あっちゃんにこにこ笑いながら気にしないな、言うてくれた」

「ほんとにいいお友達ですね」マユミが言った。

「思えばあの子がおったから救われてたんかもしれへん。神村さんとの不倫を続けるうちに、なんや自分が職場の中で孤立していくような気がしとったから。ま、それも被害妄想っちゅうもんやけど」

「その時敦子さんに頼んだんやな? 返金」

「そや。もうわたしあっちゃんに何もかも白状したわ。泣きながら洗いざらい全部、白状したわ」

 シヅ子の瞳に光るものが宿り、シヅ子は指でそっと目頭を拭った。



 年末から大阪に帰り、アルバートとずっと一緒に過ごした私は、年が明けてから再び名古屋に戻った。『緑風園』に別れを告げ、住んでいた部屋を引き払うために。

 社員寮の部屋に置いていた自分の荷物は大した量ではなかったが、それでも私でも抱えられるほどの段ボールとなると7個もの数になっていた。それを運送屋に引き取ってもらい、寮長に挨拶を済ませて、私は9か月間過ごしたその住まいを後にした。すでに『緑風園』への辞職願は前の月に提出していて、スタッフや職員への挨拶はここ名古屋に戻ってからすぐに済ませていたので、あらためてその施設に立ち寄ることはなかった。


 大阪に帰る日の昼前、私は前日荷造りから部屋の掃除までずっと手伝ってくれた敦子と一緒に、施設最寄りのバス停近くの喫茶店に入った。

「あっちゃん、ごめんな、手伝うてもろて。それにいろいろ迷惑掛けて……」

「気にせんといて」敦子はテーブルの向こうで、組んだ指に顎を乗せ、にこにこ笑いながら私にまっすぐ目を向けていた。

「でもほんま良かったわ。あんたが元に戻ってくれて」

「わたし、あっちゃんがおれへんかったら、壊れとった。そのまま不倫続けてアルバートに愛想尽かされ、神村さんにも捨てられとったやろから」

「それに気づいただけ、あんたは偉いわ。でもそれはわたしのお陰やあれへん」

 敦子はテーブルのカップに手を伸ばし、口に運んで、湯気をたてているココアをすすった。


「それであんた、神村さんと三ヶ月も続いたわけやけど、ちゃんと避妊しとったんか?」

 私は首を振った。「一度も……」

「だ、大丈夫なんか?」敦子は手に持っていたカップをソーサーに置いた。カチャン、と耳障りな音がした。

 そして彼女は思い切り不安そうな顔を私に向けた。「あんた、関係終わったんはええとしても、もしあの人の子がそのお腹に宿っとったらどないすんねん」

「それは大丈夫や。あの人との最後の夜のあとすぐ、始まった」

 敦子は肩の力を抜いて大きなため息をついた。「そうか、そらよかった」そして改めてココアのカップを取り上げた。


「そやけど」敦子は厳しい顔で私を見た。「なんで神村さん、避妊してくれへんかったん? あんたが拒否したんか? ゴム」

 私はうつむいて首を横に振った。

 敦子は少し身体を斜めに向け、上目遣いで私を見た。「あの気遣い上手な神村主任がそないなことにも気い掛けんやなんて、ちょっと信じ難いんやけど」

 私は顔を上げ、敦子の目を見た。「わたしと二人の時、あの人は主任なんかやなかった。一人のオトコやったんや」

 敦子は小さく口を開け、言葉を失って私の目を見つめ返した。

「わたしもあの人にとって、部下なんかやのうて一人のオンナやってん。あの人は自分がこのオンナをモノにする唯一のオトコや、っちゅうことを主張しとった。わたしはそない思うわ」

「オスの本能的な独占欲、ってやつ?」

 私は頷いた。「何だかんだ言うてもやっぱ、あの人もオス。独占欲っちゅうより闘争本能やないかな。わたし、アルとつき合うとる言うても、まだ一応独身やし、恋人がおるんやったらそいつからこのオンナを奪い取ったる、俺の方が優位や、て思てたんや。もちろん無意識にな。そやから、わたしがもし既婚やったり、反対に彼氏持ちやない完全フリーな女やったら、ちゃんとゴム、つけてくれてたんとちゃうかな」


「ほたら、行為も乱暴やったんか?」

「全然。正反対や。もうわたしを宝物のように扱うてくれてた。いつも」

「へえ……」

 敦子は小さく肩をすくめた


 私はハンドバッグから浅葱色の封筒を取り出し、テーブルに載せた。

「あっちゃん、お願いがあんねん」

「何?」

「これな、あの人が最後にわたしによこしたお金なんや」

「お金? なんやそれ」敦子は驚いて大声を出した。「あんたそれ、まるで売春やんか」

「ちゃうちゃう」私は手をひらひらと目の前で振った。「あの人もな、避妊せえへんかったこと後悔して、最後にこれを渡しながら言うねん。これで診察受けて、もし妊娠しとったら、アルバートに会うて頭下げて、中絶のことを話し合う、ってな」

「はあ……」敦子は少し呆れたように低い声を漏らした。

「そん時アルバートに殴られようと蹴られようと構わん、とも言うてはった」

「で、どないすんねん、そのお金。ほんまに診察に使うんか?」

 私は首を振った。「もう診察受ける必要ないやん。妊娠なんてしてへんのやから。ほんでな、あっちゃんには面倒掛けるけど、これ、神村さんに返してほしいんや」

 敦子は予想どおり困った顔をした。それでも彼女はその封筒に手を伸ばした。

「わかった。まかしとき。わたしが返しといてあげるわ」

「おおきにありがとう。ほんま助かるわ」

「あんたが返そうとしても、受け取れへんやろからな、神村さん。それにしても、」敦子は手に取った封筒を見て怪訝な顔をした。

「どないしたん?」

「なんか、へたってるな、これ。角も潰れとるし、皺もぎょうさんついとるし」

 私はふっとため息をついた。「あの人のバッグの中にずっと入ってたんや……何週間も前から」

 敦子は私の目を見て、切なそうに微笑んだ後、その封筒を自分のバッグにしまった。

 

「でも、こないなこと言うたら何やけど、あんたの不倫、幸せやったんかもしれへんな。今考えたら」

 私は手に取ろうとしたコーヒーのカップを受け皿に置き直した。「どういう意味?」

「神村さん、優しかったんやろ? ずっと。あんたを本気で好きやったっちゅうことやないんか?」

 私はうつむいてテーブルの小さなコーヒーのシミを見つめた。「そうやね」

「不幸中の幸い、ちゅうことや。カラダ目的で、遊びで抱いて、飽きたら捨てる、っちゅうオトコなんかより、ずっと、」「いや、」私は敦子の言葉を遮った。そして顔を上げた。

「ちゃうで。わたしの不倫は『不幸中の不幸』や」

「『不幸中の不幸』? なんで?」

「あの人がなまじ優しゅうて、わたしを大切にしてくれはって、本気で好きや、思ててくれはったから、わたしもずるずる関係を続けてしもたんや。」

 

 私の目頭が熱くなってきた。

 

「夜の度にあの人が何べんも何べんも『好きだ、シヅ子』言うて、わたしの中で熱うなって、わたしも一緒に熱うなって、きつく抱き合うて、一緒に汗だくになって、わたしを一緒に何度も天国に連れていってくれはって……一緒に、一緒に……」

 

 私は嗚咽を漏らしながらうつむいた、テーブルにぽたぽたと熱い雫が落ちた。

 

「シヅ……」

 私は顔を上げた。どんどん溢れる涙の粒が数滴飛び散った。そして自分でもびっくりするぐらいに大声で言った。「優しすぎや、あの人! どつきたいぐらい優しすぎや! そんなやったから、わたし切れへんかった。あの人との夜をやめられへんかったんや!」

 そして私は敦子の顔を睨むように凝視しながら唇を噛んで涙をこぼし続けた。そしてまた震える声で叫んだ。「なんであないな人と出逢うてしもたんや! 不幸やろ? なあ、不幸やろ? わたし。あっちゃん!」


 敦子は慌てて立ち上がり、私の横の椅子に座り直した。そして自分の胸をきつく押さえながら交差させた腕の拳を握りしめ、うつむいて激しく号泣している私の背中を優しく撫でた。

「辛かったな、シヅ。辛かったんやな……」

「バカや! わたしは大バカや! あっちゃんの言うこと聞けへんと、自分に負けて堕ちていってもうた!」

「もうええ、シヅ。ちゃんと終わったやないか」



 息が落ち着き、私は横にたたんで置いていたおしぼりでテーブルに落ちた涙の跡を拭き取った。

「アル、赦してくれるかな……わたしのこと」

「大丈夫や。あのアルバートくんなら。あんたを一番大切にしてくれてんのやから。それこそあの人よりも純粋にな」

 私はようやく思いついたようにバッグからハンカチを取り出して目を拭い、涙で汚れた顔を上げて敦子を見た。「そうやね」

「正直に言うたんやろ? こないだ帰った時」

「うん。言うた」

 敦子は恐る恐る訊いた。「どやった? やっぱショック受けて怒ってた?」

「ううん。彼、怒ったりわたしを責めたりしてくれへんかった。」

「そうなん?」

「その代わり優しく抱いて、髪撫でてくれはった」

「さすがアルバートくんやな。心広いわ」


 私はため息をついた。「責められた方がよっぽどましやったんやけどな……」


「彼も相当ショック受けとったんやろけど、あんたを大切にする気持ちの方が大きかったんやない? ちゃんと戻ってきてめっちゃ嬉しかったんやわ、きっと」敦子は私の顔を覗き込んで柔らかく微笑んだ。「時間掛けて修復していくんやで、二人の関係」

「うん」私は小さく洟をすすった。



「今やから言うんやけど、」敦子は隣に座ったまま、にやにやしながら私の顔を覗き込んだ。

「え?」

「わたしんとこのクラスにな、あんたのこと気にしとる同僚がおったんやで」

 私は思わず顔を上げた。「え? ほんまに?」

「しかも二人も。気づかんかったか?」

「知らんかった……」

「ま、無理もないわな。あんたには神村さんとアルバートくん以外、目に入っとらんかったんやからな」

 敦子は悪戯っぽく笑いながら続けた。「浅倉シヅ子には彼氏がおる、言うたら一人はあっさり諦めたけどな、もう一人がしつこいねん」

「そうなん?」

「なんやかやと理由つけてたんぽぽクラスに顔出しとったから、あんたも顔ぐらい覚えとるやろ? 桜木」

「桜木……さん?」

「そや。顔も身体もまん丸の寸詰まりオトコ。いっつも顔中に汗かいてて、わたし毎日言うてやってた。もっとダイエットしたらどないや? って」

 そう言えば、不必要な程に元気な若い小太りの男性が、たんぽぽクラスに教具を借りに来たり、敦子さんは来てませんか、と探しに来たりしていた。

「あの人かー。いくつなん? 歳」

「わたしらよりいっこ下やねん。そのくせ一年早うに就職したからっちゅうて、偉そうにしとった。それにな、」敦子は眉間に軽く皺を寄せて続けた。「あいつ、神戸の人間やのに、関西弁つかわへんねん。何気取ってんのや、言うても、『いや、僕は』とか言うてごまかすねんで。おまえが気取っても似合わへん。自分の顔と相談したらどないや、っていっつも言うてやってたわ」

 私は思わず口を押さえて笑った。

 急にああ、と敦子はひどく安心したようにため息をついて、私を切なそうな顔で見た。「やっと見られたわ、シヅのその笑ろた顔」

「え?」

 

 敦子は私の横の椅子を立ち、元のように向かいの場所に座り直した。そして冷めてぬるくなったココアの残ったカップを手に取った。

「あんたが神村さんと不倫しとる間は、そんな顔して笑ったことなかったやん」

 私はばつが悪そうに頬を指で撫でた。

「その顔、大阪でアルバートくんとつき合うとったころにはよう見せてくれてたんやけどな」

「……そうだった?」私は上目遣いで敦子を見た。

 

「ほんでその桜木のやつな、わたしが何度シヅには彼氏がおるんや、言うてやっても、自分の方を振り向かせて見せます、言うて意気込んどった。それにな、シヅは背の高いオトコにしか興味ないねんで、言うても、僕も今から背を伸ばします、言うてな。無理やっちゅうねん。あほちゃうか、なあ」

 

 その桜木という同僚の話で敦子はいつになく饒舌になっていた。そうやって一生懸命になって私の笑顔を取り戻そうとしてくれる親友を、私は組んだ指に顎を乗せ、目を潤ませたまま微笑ましく見ていた。

 

 敦子は腕時計に目をやった。「あ、もうこんな時間や。もうすぐバス来るで。そろそろ用意せんと」

「……そうやな」

 私はテーブルの下のバッグに手を掛けた。

 

 

 穏やかな小春日和だった。見上げると青い空を白い雲の塊が少し急ぎ気味にいくつも流れている。

 毎日朝から生徒の乗ったバスを待ち、夕方生徒を乗せて見送ったバス停。今日限りでこの場所とも縁が切れるかと思うと、自然と目に涙が滲んだ。

 

「ほな、元気でな、シヅ。ご家族にもよろしゅう言うてな」

「うん。おおきに。いろいろありがとう」

 私はバッグの肩紐を掛け直した。

「手紙書くからな、あっちゃん」

「そやな。アルくんとラブラブな様子、聞かせて」敦子は悪戯っぽく笑って私の肩を軽く叩いた。

 私は泣きそうな顔になり、思わずまた空に目を向けた。

 

 道の向こうからペールオレンジの車体を揺らして、バスが近づいてきた。

 


「ほんまええ友だちなんやな、敦子さん」ケネスが腕組みをして言った。

「ああ。ほんまにな」

「今でも毎年年賀状よこしてくる、あの敦子さんやろ?」

「そや。結婚して姓が変わっとるけどな、『桜木』に」シヅ子はおかしそうに言った。「学生時分から毎年欠かさず年賀状送ってくれはる」


「おかあちゃん、やっぱ神村さん野性的なとこもあったんか? オスやった、言うてたけど」

「ゴムつけんと、直接わたしに種を注ぎ込んだんが一番やな、やっぱり。自分の子孫を残す、っちゅう野生のオスの所業やろ? 言うたら」

「そやな。確かに」

「それ以外は完璧な紳士やった」

 ケネスはカップを口に運びながら、シヅ子を上目遣いで見た。

「わいがどうしても解せんのんは、おかあちゃんが、そうやって神村さんに避妊させなんだこと。彼との行為の時は一度も避妊してへんのやろ? 何とも思えへんかったんか?」

 シヅ子は顔を曇らせ、うつむいた。「わからへんねん。未だにわからへんねん」

「わからんことあるかいな」

 シヅ子は顔を上げた。「ほんまにわからへんねん。もしかしたら妊娠するかもしれへん、てなこと、いっこも思わんかった。あの人との行為の時は、これが当たり前なんや、て思てたような気がすんねん」

「当たり前て何や」ケネスが反抗的に言った。

「それでもあの人も、毎回毎回わたしの中に遠慮なしに出してたわけやなかったんやで。そら、ゴム使うことは一度もなかったけどな」

「そうなん?」

「そらそうや。敢えて危険日にそないなことしたら、まるであの人の子を産みたい思てるみたいやんか」

「毎週ホテル通いしとったんやろ? その度にエッチしとったんやないんか?」

「ゴムこそ着けへんかったけど、わたしが危険日の時は、抜いて腹の上に出してはったんやで」

「行為の間は直接繋がって盛り上がっとったんやろ? 最後に出す時だけ抜いても意味ないねんで」

「わかっとる。わたしもずっと後になって知ったわ。興奮してくると、精子が漏れ出るんやろ? 弾ける前でも」

「その時はおかあちゃんも神村さんもそれで大丈夫、思てたんやな?」

「思てた」

 

 シヅ子は手をテーブルに置き、思い出すような目をして言った。

「初めての夜は9月の終わり。10月は二週間に一度の土曜日。11月に入ってからは毎週デートしとった。平日は全くそんなことはなかったで」

 ケネスはカップを口に当てたまま、横目でシヅ子を見た。「それから関係が終わるまでずっと毎週抱き合うてたっちゅうことやんか」

「わたしはな、あの人と二人でいることに満足しとった。別に身体を気持ちよくさしてもらうためだけにつき合うてたわけやない」

「わかります」マユミが躊躇いがちに言った。「女性って、心理的な満足感があれば十分、ってことですよね」

 シヅ子は頷いた。「二度目にあの人から誘われた時も、始めは一緒に食事をしよう、ちゅうことやったんや。そやけどあの人も男やし、それだけでは済まんかったわけや」

「なるほどな。わかるわ。わいも男やから」

 ケネスは少し気まずそうにマユミをちらりと見た。

 マユミはくすっと笑った。

 

「それからも食事したらホテルに直行、っちゅうあからさまなデートやなかってんで」

「映画も観たりしてたんやろ?」

「それでも一回だけや。映画一緒に見たんは。偶然、っちゅうか皮肉にもアルバートの好みとだぶってもうたけどな」

 シヅ子は視線をテーブルに落とした。

「その夜は激しかったわ。恋愛映画っちゅうのんは刺激的であかんわ」

「遠慮なく何べんも中に出されたんやろ? その時は」

 シヅ子は申し訳なさそうに小さな声で言った。「まあ……安全な日やったしな」

 

「わたしな、言い訳にしか聞こえへんやろけど、あの人とのエッチをいっつも望んどったわけやあれへん。あの人の腕に抱かれて眠るだけで気持ちようなって満足しとった」

「そやけど、神村さんはそうはいかんかったんやろ?」

「男やからな。そやからそんな時は仕方なく相手しとった」

「拒絶したら、これからもう抱いてくれへんかも、とかなんとか思てたんか? ひょっとして」

「それはあったな。あの人が望んどる行為を拒絶したら、もうわたしは捨てられるんちゃうかな、って不安になっとったのは事実やな」

「もうそんだけおかあちゃんも神村さんに惚れてたっちゅうことなんやろな」

「いっそ拒絶してあの人に捨てられとった方が良かったかもしれへん」

「いや、そう簡単にはいけへんやろ」

「なんでや?」

「神村さんもおかあちゃんにぞっこんやったんやろ? エッチを拒否されたところで、簡単に浅倉シヅ子を手放そうやなんて思わへんで。おそらく」

「そやな……そうかもしれへんな」

 シヅ子は申し訳なさそうな目をケネスに向けた。

 

「そやけど、そないして仕方なく相手してても身体はやたら反応するねん。あの人と一つになったとたん、燃え上がってしまうねん」

「テクニシャンやったんか?」

「そういうわけやあれへん。どっちか言うとワンパターンで淡泊な感じや。比較するようなもんやないんやろけど、アルに比べたらずっと不器用やった。あの人のやり方、っちゅうより、道ならぬ行為をしとる、っちゅう思いが、身体をむやみに反応させてたんやろな。初めての時から身体は敏感に感じて弾けまくったからな」

「よう言われるわな、禁断の恋ほど燃え上がる、ちゅうて」

「まさにそれや。その通りやった」

 

「昼間デートしとってもキスしたり抱き合うたりしてたんか?」

 シヅ子はきっぱりと首を横に振った。「そんなことするわけあれへん」

 ケネスは意外そうな顔をした。「神村さん、最初は街なかでキスしてきたんやろ?」

「あれが人前でわたしらがキスした最初で最後や。不倫の期間中は街で腕を組んだり手を繋いだりすることすらあれへんかった。あの人とはいちゃいちゃするような関係やなかったんや」

「不倫ちゅうても恋人同士やんか」

 シヅ子は諭すように言った。「不倫の恋は大まじめや。二人の時間は禁じられた時間や。そやから何から何まで真剣やった。ちゃらちゃらした浮ついた気持ちやない」

 シヅ子はうつむき、声を落とした。「そやからタチが悪いんや」

「おかあちゃんたちのんは『浮気』やなかった、ちゅうことやな?」

 シヅ子は頷いた「決して遊びやない。気持ちは真剣やった。そやけどそれはあっちゃんにも、たぶん誰にも理解してもらえんわな」

「他人にはわからんわな、確かに」

「やっとることは不倫で浮気やけど、気持ちは本気なんや。そやけどそれは世間一般に許されることやない。そやからあの人と街を歩いとる時は普通に並んで、あんまり会話もなかった。すれ違う人の目がやたら気になってな、周囲がわたしらを白い目で見とるような気がしてならんかった。食事の時も、映画見てる時もそうや」

「やましいことしとる、っちゅう思いはずっとあったわけやな……」

「そないな感じやから、あっちゃんが言うてた通り、職場でも笑顔も見せんとずっとムツカシイ顔しとったんやろな。二人とも」

「なるほどな」

「そやからその反動で、ホテルで誰にも見られんと、二人きりになったら、もうあかん。求め合うて、絡み合うて、感じ合うて、弾けまくっとった」

「そんなもんなんやな……不倫っちゅうのんは。実は遊びとは訳が違うねんな」ケネスがしみじみと言った。

「遊びは代用が効くし、我慢もできていつでも止められる。そやけど不倫はそうやない。あの人の代わりなんかおれへんし、我慢できんと求め合うんや。真似したらあかんで、ケネス」

 ケネスは呆れたように言った。「するかいな」

 

 シヅ子は襟足のあたりを小さく掻いた。

「そない考えたら、今思えば、あの人のやることは、わたしにとってみんな、何や特別な感じがしとったな」

「特別?」

「非日常っちゅうか……。わたし、あっちにおる時、一度も神村さんの私服姿見たことないねん」

「え? そうなんか?」

「職場でもスーツ。黒のな。夏場でも。そやけど、わたしとのデートの時は別のグレーのスーツにワイシャツやった。しかも毎回同じ。いっつもちゃんとネクタイしてな」

「割り切ってた、っちゅうか、神村さんも非日常って意識してはったんかな」

「そういうところやろな。わたしと一緒にいることは、あの人にとっても特別、っちゅうかやっぱ後ろめたいことやったろうし。自分への戒め、っちゅう思いもあったと思うわ。結局そんなもんや。そないして無理してつき合うとって、わたしとの関係がずっと続くわけあれへん」

「神村さんには、おかあちゃんとの時間がいつ最後になるやもわからん、っちゅう危機感、っちゅうか覚悟みたいなんもあったんかな」

 シヅ子は頷いた。「確実にあった、思うで。あの診察費の入った封筒も、ずっと前からあの人のバッグに入ってたみたいやしな」

「神村さんもずっと悩んでいらした、ってことなんでしょうね」マユミが切なげな顔で言った。

「考えてみたらわたし以上に悩んではったんかもしれへん。こんなこと続けるわけにはいけへん、ってな」

「おかあちゃんと別れるきっかけが掴めんかった、っちゅうことなんかな。神村さんの性格からして」

「わたしにもあの人にも、不倫は罪、っちゅう思いはかろうじて残っとって、いつかは終わる、思とった。けどやっぱ二人きりになって、抱き合うて、キスしてもうたら、もう身体が言うこときけへんようになっとった、きっとあの人もそうやったんやろ。不倫の恐ろしさやな」

 

 シヅ子は氷の溶けてしまったウィスキーのグラスを揺らした。彼女は自分で持ってこいと頼んでおきながら、その中身に口をつけることはついに一度もなかった。


「あたし、実は、」二人のやりとりを聞いていたマユミが重い口を開いた。シヅ子は顔を上げた。ケネスもマユミに目を向けた。「アルバートお義父さまからこの話、聞いたことがあるんです」

 シヅ子は大きく目を見開き、震える声で言った。「な、なんやて?!」

「ほ、ほんまか? マーユ」

 マユミは頷いた。

「この話、って言うか、お義母さんに神村さんとの関係を告白された時の気持ちを……」

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