Twin's Story 外伝 "Hot Chocolate Time" 第3集 第2作

忘れ得ぬ夢~浅葱色の恋物語~

5.たどり着いた場所


 いつものレストランを出た所で、神村は思わず手のひらを上に向け、空を見上げた。「降り出したね……」

「天気予報が当たりましたね」私は神村の顔を見上げた。

 神村は近づいたタクシーに手を上げた。その車はすぐに二人の前で停まった。

「暁橋に」神村はリアシートから身を乗り出すようにして、低い声で運転手に伝えた。

 私はコートの襟元に手をやり、中に着ていたブラウスの一番上のボタンを外した。


 『暁橋(あかつきばし)』というのは、この街の中心を流れる大きな川に掛かる橋の一つだったが、そのたもとには数件のラブホテルが建ち並び、ネオンや赤青のランプが夜になると派手に輝いている界隈だった。そしてその『暁橋』という言葉は、そのホテル街に車を向けてくれ、という一種のスラングになっていたのだった。


 白髪混じりの運転手は黙ったままハンドルを握り直して右ウィンカーをつけた。雨粒がフロントガラスの視界を曇らせ、ワイパーがそこを何度も繰り返し横切るのを私はぼんやりと見ながら、隣に座った神村の手を無意識のうちにぎゅっと握りしめていた。



「照彦さん」ホテルの部屋に先に足を踏み入れた私は、ベッドの横に立って言った。「あなたにプレゼントがあるんです」

 靴を脱いだ神村は、狭い入り口のスペースに屈んで私のヒールを揃え直し、自分の大きな革靴をその隣に寄り添わせるように並べて置いた後、立ち上がって振り向いた。「プレゼント?」

 私は紙袋を持ち上げた。

「へえ、嬉しいな。何?」神村はそれを受け取りながら袋の中を覗いた。そして入っていた細長い箱を取り出した。

「ネクタイ。いつも同じの、してらっしゃるから」

 神村は照れくさそうに笑った。「そ、そうか。どうもありがとう」

 私はコートを脱いでハンガーに掛け、壁のフックに下げた。そして神村に微笑みを向けた。「今日はいっしょにバスルームに」

 その箱を手に持ったまま、神村は意外そうな顔をした。「え? あ、ああ、いいよ」


 私はすぐに自分の着ていた服に手を掛けた。アーガイル模様のセーターを首から抜き、短めのタイトスカートを、穿いていた黒いストッキングを、そして薄いピンク色のショーツまで一気に脱ぎ去った。


「照彦さん」私は彼の名を呼び、身体を振り返らせた。神村はいつも私とホテルに入った時そうするように、壁に向かってグレーのスーツの上着を脱いでいるところだった。彼のコートは私のそれと重なるように壁に下げられていた、

 私は薄いブラウスだけの姿で神村を見上げ、小さな声で言った。

「脱がせて……」

 神村は、えっ? という顔をして私に近づいた。

「ブラはしてないの? って、も、もう他には何も着てないじゃない」

 私はこくんと頷いた。

 神村は呼吸を無理して落ち着かせながら言った。「浅葱色のブラウス……」

 そして彼はほどきかけたいつもの柄のネクタイをそのままにして、私のブラウスのボタンをゆっくりと外していった。

――そう。浅倉シヅ子と神村照彦の初めての夜と同じように。


 ボタンを全て外し終わった神村は、私の胸をはだけさせ、両肩を大きな手で掴んだまま、息を荒くして待ちきれないように唇を求めた。

 すぐに私は少し身を引いて口を離し、自らブラウスを脱ぎ去った。

 一糸纏わぬ姿で私は、背伸びをして少し不安げな顔をしていた神村に抱きつき、今度は自分からその唇を求めた。彼も私の背中に腕を回し、安心したようにいつものようにゆっくりと、時間を掛けてこの唇を愛した。彼に抱きしめられ、緩められたネクタイが私の乳首に何度も擦れて、その度に私は思わず眉を寄せてんんっ、と呻いた。私は神村を抱きしめた腕に力を込め、自分の乳房を彼の逞しい胸に強く押し付けながら舌同士を乱暴に絡み合わせた。


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「どうしたの? 今日は。今までいっしょに入ったことなんかなかったのに」

 バスタブに身体を浸し、神村と向かい合っていた私は、神村のその問いには答えず、右手の指を彼の逞しい胸に這わせた。

 目を上げることなく、私は抑揚のない口調で言った。

「神村さん、わたしのこと、今も好きですか?」

 意表を突かれたように神村は言葉をなくし、私の目を見つめ返してきた。


 本降りになった雨がバスルームのガラス窓を打つぱらぱらという音が異様に大きく耳についた。


「好きですか?」

 私はもう一度訊いた。


 神村はゆっくりと口を開いた。「僕がまだ独身だったら、君にプロポーズしたかもしれない」

「そう」私は寂しげに微笑んだ。「独身だったら……」

「でも今の僕は、君のことしか考えられない」

「わたしだけ?」

 神村は躊躇いがちに言った。「もう、妻には……」

「奥さんとわたし以外の人、いないんですか?」

「え?」神村は眉を寄せた。

 私は少し無理のある笑顔を作って彼の目を見つめ返した。「嬉しい、照彦さん」

 そして神村の濡れた裸の背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。


 私は彼の身体を抱いたまま低い声で言った。

「先週の土曜日はどこにいらっしゃったの?」

 神村はすぐに答えた。「家に一人でいたよ」

 私は腕を解き、逞しい両肩に手を置いて、彼の目をじっと見つめた。「何してらっしゃったの?」

 神村は小さく肩をすくめた。「ずっと本を読んでた」そして私の目を見つめ返した。「君は友だちといたんだろう?」

「はい……」

「ホントに?」神村は真剣味のある目で私の顔を覗き込んだ。

 私は少し苛つきながら言った。「ほんとです。あっちゃんと」

「学生の頃からの友だち、だね? 橘……敦子さんだったっけ?」

 私はこくんと頷いた。

 神村は両手を私の首筋にそっとあてた。「僕と過ごせなくて、寂しいなんて思わなかったかい?」

「別に……。親友と過ごしてて寂しいなんて思うわけないじゃないですか」

 私は自分でもやり過ぎかと思うぐらい棘のある言い方をした。


 神村が黙り込んだので、私は思わずもう一度彼の顔を見上げた。


 その人はまだ真剣な深い色をした目で私を見つめていた。

「僕は……寂しかった……。とても」

 そして不意に私の身体をぎゅっと抱きしめ、耳元に口を寄せた。「君を抱きたくて抱きたくて……。ずっと眠れなかった」

 彼の声はかすかに震えていた。


 私の胸の内から燃え上がる炎が全身に広がり、内側からこの身を焼き焦がし始めた。



 ベッドに横になると、神村は私の全身にくまなくキスをした。額に、うなじに、肩に……。


「シヅ子、君の何もかもが好きだ」


 肩胛骨に、背筋に、脇腹に、


「ああ、愛しい、君が、たまらなく愛しい……」


 乳房に、へそに、内ももに……


 私は加速度的に身体の温度が上がっていくのを感じていた。


 そして神村は私と脚を絡ませながら最後に唇と舌を慈しんだ。私もんんっと呻きながら何度も角度を変えて口を重ね直し、唇を舐め、舌を絡み合わせた。


 私は口を離して彼の肩を押しやり、仰向けにすると、その身体に覆い被さり、間近でその澄んだ瞳を見つめた。


「照彦さん」

 私が呼ぶと、彼もすぐに応えた。「シヅ子」


 二人は再び共に目を閉じて顔を近づけた。

 私は神村の上唇を咬んだ、神村は舌を伸ばして私の顎を舐め始めた。

 はあっと大きな吐息と共に私は口を開いて神村のそれを覆った。そして唾液を滴らせながら舌を彼の唇に割り込ませた。神村はその舌を吸い込み、自分の舌を絡ませ、何度も擦り合わせた。下になっている神村の頬をとろとろと二人の唾液が伝い落ちた。


 そうやって私が上になり身体を重ね合うのは二人にとって初めてのことだった。


 私は出し抜けに神村から身体を離し、ベッドを降りた。

「え? シヅ子ちゃん?」

 ベッドに取り残された神村は身体を起こし、上気したままの顔を不安そうに曇らせて私の姿を見やった。

 私はソファの肘掛けに無造作に引っかけられていた神村のいつものネクタイを手に取り、ベッドに戻った。

 私は無言のまま神村の身体を乱暴に押し倒し、再びその身体に馬乗りになった。

「シヅ子ちゃん?」


 私は唇を噛みしめ、泣きそうな顔で、神村の顔を見つめた。

 彼の身体にのしかかった私は、手に持ったネクタイでその両手の手首を固く縛り上げた。そしてその腕を彼自身の頭上に持ち上げた。

「シ、シヅ子……」

「これは罰。貴男への」

「え? 罰?」

 私は口元に冷ややかな笑みを浮かべると、神村の身体に四つん這いで覆い被さったまま、すでに豊かに潤った自分の秘部に右手の指を差し入れ、抜き差しを始めた。くちゅくちゅと淫猥な水音をわざとたてながら、身を乗り出し、自分の乳房で神村の口を塞いだ。彼は驚いたように目を見開き、喉元で苦しげなうなり声を上げた。

 しばらくそうして彼の呼吸の自由を奪った後、私は上になったまま、いきり立って脈動し始めていたその持ち物に爪を立てて握った。神村はんぐっ、と呻き身体を仰け反らせた。神村のそれはすでに熱く、先から透明な液が漏れ出していた。

 今度は口で神村の口を塞いだまま、私は熱く火照った彼のものを持った手を上下に動かした。神村はその度に苦しそうな顔で呻いた。その言葉にならない声とぬるぬるとした手の感触が私自身の身体もどんどん熱くしていった。


 それから私は身体を離し、手で強く握りしめていた彼のものを躊躇わずそのまま口に咥え込んだ。


「シヅ子っ!」神村は突然身体を起こし私に向かって大声を出した。

 それは恫喝に近い叫び声だった。私は反射的に口を離し、身体を硬直させて、怯えたように目を見開いた。


「やめろっ! そんなことするんじゃない!」


 私はその時、幼い頃粗相をして、父にひどく叱られたことを思い出していた。

 荒い息を繰り返しながら神村は結びつけられた両手首を自分の太ももに置いて、真っ赤な顔をしていた。それは性的に興奮していたというより、怒りに身を震わせていたという感じの表情だった。

「僕は君にはそんなことをしてほしいなんて思ってない!」

「……君には?」私は神村の顔を上目遣いで睨み付けた。

「君らしくないことを……しないでくれ」

 神村は声のトーンを少し落として言った後、唇を噛みしめた。


「わかりました。もうしません」私は無愛想な口調で言った。

 私は再び彼の身体を仰向けにすると、腕をゆっくりと持ち上げ、額同士をくっつけ合って、その顔を覗き込んだ。

 胸の中の赤い炎がまたゆらゆらと妖しく揺らめき始めた。

「じゃあ、誰からならあんなことされたいの? 照彦さん」

「え?」

「わたしじゃない誰かからしてもらいたい、なんて思ってるんじゃない?」

 いきなり神村は結びつけられた両腕を枕から持ち上げた。そして私の頭をくぐらせ、背中に回した。彼の腕は手首を結び合わせられているにも関わらず、私の背中をいつもと同じ力でぎゅっと抱いた。

 あっ、と小さく叫んで私は慌てた。

「さっきから何を言ってる?」神村はまた声を荒げた。「今日の君は変だ!」

 私と神村の身体は、簡単には離れなくなってしまった。自分が拘束した彼の腕が、私自身をも拘束したのだ。


 私は神村の目を睨み返し、乱暴にその口に自分の唇を押し当てた。神村はまたんんっ、と呻いた。そして私は二人の身体の隙間に挟み込まれた手で握っていた神村のものを自分の谷間に宛がった。

 神村は反射的にぐっと膝を立てた。


 私の身体は、すでに強烈に神村を求めていたが、鋼のように硬くなり熱く脈動しているそれを、私は簡単に中に入れさせなかった。

 神村は息を荒げ、焦ったように言った。「シ、シヅ子ちゃん! 入りたい! 君に入りたい!」


 ――『シヅ子ちゃん』。神村は、興奮が高まって私の名を呼ぶ時、初めての夜以来口にしなかった呼び方で叫んだ。


 私の秘部から溢れ出していた熱い雫が、彼のその先端を濡らし、流れ落ちて、握っている私の手を温かく潤した。

「シヅ子ちゃん! お願いだ! 僕を中に! も、もう限界だ!」

 神村は異常なほどに焦り、興奮した。


 私も同じようにそうやって焦らし続けることに限界を感じ始めていた。


 私は彼の喘ぎに応えるようにゆっくりと腰を落とし始めた。

「ああ……シヅ子……ちゃん」神村は目をぎゅっと閉じて、ため息交じりにひどく幸せそうな呻き声を上げた。


 神村の鋭く天をさしていたものが私の中に入っていく。その部分から身体全体にざわざわと快感が広がっていく。私は思わず顎を上げてその感覚に身を委ねた。ゆっくりと、しかし熱くとろとろと、まるで海に沈みゆく太陽のようにそれは私の身体の中に甘い痛みを伴いながら、二度と浮上できないかのように深く深く入り込んでいく。


 もう何度目だろう、と私は考えたりした。こうやって何度、この人の身体を受け入れたのだろう、と息を荒くしながら思った。


 ふつふつと身体の中から湧き上がっていた痺れにも似た甘い疼きが、一気に全身の肌を走り抜けた。私は思わずああっ、と叫んだ。それと同時に腹部がびくびくと痙攣を始めた。

 いつしか神村のものは身体の奥深くに到達していた。私は彼の上で身体を揺すり始めた。

「ああ……」


 神村は結びつけられた両手を私の身体から抜いて万歳のような姿になり、身体を仰け反らせた。そして苦しそうな表情で顎を上げ、大きく声を上げて喘ぎながら身体をよじらせもだえ始めた。その姿は私が初めて目にするものだった。そして男性もこんなに激しく全身で感じるものなのか、とひどく意外に思いながらその姿を見下ろした。

 考えてみれば、今までずっと私が下になって、この人に感じさせられ、乱れていた。それが逆転している事実が今までにない興奮を呼び覚まし、彼を征服しつつある哀しい満足感に浸りながらますます身体を熱くして私も大きく身体を波打たせた。

 身体を起こし、少し前屈みになって、汗が噴き出し始めた神村の胸に両手を突き、その人の大きな身体を思い切り押さえつけながら私は大きく身体を上下に揺らし続けた。その度にぬらぬらと抜き差しされるいきり立った彼のものが、私の谷間の中からあふれ出る雫を蹴散らして彼自身の下腹部に飛び散った。


「シヅ子! シヅ子っ!」神村はますます大きく身体をくねらせ、絶叫に近い声を上げ続けた。

 シーツに踏ん張って身体を支えていた膝ががくがくと震えた。ひどいめまいがしてよろめき、私は思わず目をかっと見開いて身体を倒し、はあはあと喘いでいる神村にしがみついた。


「シ、シヅ子!」神村は手首を激しく擦り合わせて、結ばれていたネクタイの拘束を自力で解いた。それは固い結び目を残したまま、枕の脇に無造作に転がった。


 彼は胸を大きく上下させながら苦しそうに、喉の奥から絞り出すような声で言った。「も、もう……」

「だめ、まだ! まだイかないで! お願い、イっちゃだめ!」私は叫んだ。

 乳房を神村の胸に強く押しつけ、私は彼の肩に顎を乗せてその耳たぶを咬んだ。

 んん……、と呻いた神村は私の背中を解放されたその腕でぎゅっと締め付けた。私は同じように背中に回した手に力を込め、その熱く湿った肌に爪を立てて、さらに大きく身体を揺すり続けた。


 彼の耳から口を離した私は、喘ぎながら無声音で囁いた。「照彦さん! わたしだけを見て! 今はわたしだけを!」

 そして彼の肩に強く歯を立てた。

「いっ!」神村は大きく叫び顔をゆがませた。


「シヅ子! シヅ子っ!」神村がびくびくと身体を痙攣させながら大きく叫んだ。「シヅ子っ!」

「照彦さん!」

「好きだ! 君が大好きだ! あ、あああーっ!」

 一緒に動いていた神村の身体が硬直した。

「わたし、わたしっ! んんんんーっ!」私は彼の汗だくの胸に手を突いて突っ張り、身体を仰け反らせた。神村は私の二つの乳房を両手で大きく包み込み、顎を上げ、苦しそうに歯を食いしばった。


 神村はぐううっ、と大きく呻いて身体を大きくベッドから跳ね上げた。そしてその瞬間、私の中心に激痛にも似た衝撃が襲い、彼の身体の奥深くから一気に噴き出した熱い思いが勢いよく、上で瞳に涙を滲ませながら全身を紅潮させぶるぶると震わせている私の中に迸った。


 どくっ! どくどくっ!

 私の身体の最深部の空間を激しく何度も押し広げながら、その男性は自らの熱い思いを何度もその中に注ぎ込んだ。


 私は声も出せずに全身を細かく震わせ続けた。その両目から溢れ、頬を伝った幾筋もの涙は神村の紅潮した逞しい胸にぽたぽたと落ちて、彼の汗と同化した。



 事後のシャワーは別々だった。私は一緒に、と言ったが、神村は断り、私の身を先にバスルームに促した。


 すっかり息を落ち着けた二人はベッドで寄り添っていた。

「シヅ子ちゃん、先月の生理はちゃんとあった?」

「え? はい」

「そうか」


 神村はいつも終わった後、眠りにつく前にしてくれるように、枕に伸ばした右手に私の頭を乗せさせようとしたが、私は拒んだ。

「シヅ子ちゃん、今日は何だか様子が違うね」

「……」

「何かあった?」

 私は天井を見上げ無表情のままで言った。「別に。何も」

「何か……攻撃的だったけど」

「やってみたかっただけ」

「そう」

 神村も天井に目を向けた。


 私の胸の中の炎は、まだゆらゆらと燃えていた。

「もっと気持ち良く抱かれたかった……」

 私がそうぽつりと言うと、神村は身体を起こし、むっとした顔で私を見下ろした。

「何? その言い方は」

 私は神村を見上げ、きっと睨み付けて言った。「確かにわたしは貴男のちゃんとしたパートナーじゃない。だけど、今の貴男にとって一番深い関係の女だって思ってた。わたしだけが一番だって!」

 神村も私の目を睨み返した。「今は君が一番さ。いきなり何を言い出すんだ!」

「わたし以外にもオンナがいるんでしょ?」

「いるわけないじゃないか! どうしてそんなことを急に言い出す?」

「貴男は今独り身だし、抱こうと思えば、いつでも誰でも抱けるわよね」


 神村の唇がぶるぶると震え始めた。

「いいかげんにしろ! 君が何を勘違いしているのか知らないが、今まで通り、僕にとって君が唯一であることに変わりはない!」

 私は思わずぷいと彼から顔を背けた。むやみに涙が溢れてしかたがなかった。

「僕は君以外の女性を抱いたりしない! 決して!」


 思えば、私と神村がこうして口論をするのもそれが初めてだった。


 しばらくの間、二人は黙ったままだった。

 やがて神村は元のように私に寄り添い、横たわった。

 先に神村が口を開いた。「ごめん、大声出しちゃって……」

 

 私は黙っていた。いや、口にする言葉を思いつかないでいた。


 また長い沈黙があった。


「僕は……」不意に神村が独り言のようにぽつぽつと口を開き始めた。「君といると、本当に心が癒やされた。月曜日の憂鬱も、水曜日の倦怠感も、君と同じ所で同じ時間を過ごすとすっかり忘れられた」

 神村はゆっくりと顔を私に向けた。「そして独り身のむなしさも」


 私は彼の目を見ることができなかった。


 彼は自分の胸の上で指を組んだ。

「正直に言うとね、僕は秋のあの宴会の場では下心満載で君と話してた」

「そうなんですか?」私は思わず神村に顔を向けた。

「うん。妻との交渉がずっとなくて、身体が欲求不満になってて、誰かを抱きたくてしかたなかったんだ」

「その時、わたしが都合良くそこにいた、ってこと?」

 神村は申し訳なさそうに数回瞬きをした。「まあ……言ってしまえばそうなんだけど……」


 私は目を天井に向けた。「わたしもそうかも」

「え?」

「夏に会ったきり、大阪の彼に抱いてもらってなかったから、わたしも誰かとそういうことをしたい、って思ってたような気がします。思ってた、って言うより、身体が求めてた、ってことかな……」

「そうなんだね。君も」神村も顔を天井に向け直した。

「わたしたち、偶然波長が合ったんですね」

「そうだね。共鳴し合ったんだね。偶然」


「でも、」神村が言った。「君との夜を重ねるうちに、僕は君のことが本当に、心から好きになっていった。これは嘘じゃない。君とずっと一緒にいたい、君の笑顔が見たい、君と同じ空気をこの胸に吸い込みたい、って」

「そう……」

 神村は目を閉じ、自分の胸に手を置いて、苦しそうに一度大きく息を吸い、震わせながら吐いた。


「思えば、職場でも僕は君をずっと見ていたような気がする」


「えっ?」

「君のスタッフのみんなへの気遣い、控えめな口調だけどしっかりした行動。最初の頃は、よく気がつくいい子だな、ぐらいに思ってたけど、だんだんこんな人が僕のそばにいてくれたら、って思うようになってた。そしたらもう、君だけが暗闇の中の蝋燭のように職場で明るく輝いて見えて、他には何も見えなくなってた」


 神村と二人きりの時間を過ごす時、彼が絶対に口にしなかった職場の話題を持ち出したのに私はひどく驚いた。


 彼は興奮したように早口で続けた。「そしてこういう関係になって、実際君と触れ合っていると、胸が熱くなって、大きな幸福感で身体中が満たされる。抱き合っていてもいなくても、君と二人きりでこうしているだけで、僕は世界中の誰よりも恵まれた存在に思えて、温かい日だまりの中にいるような安心感に浸っていられた!」


 私は速くなった自分自身の鼓動に気がつき、思わず胸に手をあてた。


「君のことしか見えなくなってるんだ……今も」


 神村は目を少し潤ませ、照れくさそうに頭を掻いた。「ごめん、かっこつけちゃって……」


 ――彼が私の前で目に涙を浮かべるのも初めてのことだった。


 私の胸の中で揺らめいていた妖しく赤い炎は、急速に小さくなっていき、やがて細い煙を一本残して消えた。その代わりに身体の奥から、熱く沸騰した甘い疼きが湧き上がり始めた。

 私はどんどん強くなっていく動悸を無理に落ち着かせようと焦りながら、努めてゆっくりと言った。「神村さんが、わたしをそんなに熱烈に想って下さることは、とっても嬉しい。でも……それがわたしであってはいけなかったと思います」

 神村は目を閉じ、小さくくぐもった声で言った。「……そうだね」

「わたし、あなたに最初に誘われた時、お断りするべきでした。やっぱり」

 神村は胸を膨らませ、はあっと大きく息をした。「僕の思い上がりだ。僕と同じように君も僕のことを想ってくれているって勘違いしていた」


 しばらくの沈黙の後、私はようやく口を開いた。声が震えていた。「わたし、あなたにそんなこと言われたら……」

「え?」

「引き返せなくなっちゃうじゃないですか」

「シヅ子ちゃん……」


 私は神村の目をまた睨み付けながら大声で言った。「なんでそんなにわたしを想ってくれるの? やめて! もうやめて! お願い、わたしをこれ以上苦しめないで!」

 私の目からはまた涙が溢れ始めていた。

「シヅ子ちゃん、ご、ごめん、そんなつもりは、」神村は身体を起こしておろおろし始めた。

「わたしだって好きだった。あなたが大好きだった! 優しいあなたに抱かれて、心も身体も満たされた」

 私は顔を両手で覆って嗚咽を漏らしていた。神村は起き上がったまま、私の髪を撫でた。


「神村さん、照彦……さん! 優しいあなたの声が、優しすぎるあなたの唇が、汗ばんだ熱い肌が、身体の重さが大好きだった!」

 私は手を離し、涙でくしゃくしゃになった顔を神村に向けた。彼は私の顔を覗き込むようにして、今にも泣きそうな顔で私の目を見つめた。「シヅ子ちゃん……」


「満たされた。心も……」

 私の手が自然と彼の顔に伸び、その頬を撫で、緊張したように結ばれた彼の唇に指が触れた。「心も身体も」


「シヅ子っ!」

 神村は大声でそう叫ぶと、私に覆い被さり、激しく口を交差させた。私は彼の熱くなった身体を両手で力一杯抱きしめながらそれに応えた。


「来て! 照彦さん! わたしを、わたしを愛して! 二人の初めての夜のように!」

「シヅ子! シヅ子っ!」

 私と神村の身体は激しく絡み合った。

 そして彼の手が私の太ももに触れた。私は焦ったように膝を立てて脚を開いた。そして神村の身体を強く挟み込んだ。

 彼の身体の中で最も熱くなっている部分が私の潤った谷間に宛がわれる。そして身体をぴったりと重ね合わせたまま、それはすぐに私の奥深いところまで到達し、びくびくと脈動を始めた。


 深く繋がり合った二人はずっとお互いの口を塞ぎ合い、喘ぎながら貪るようにその感触を確かめ合っていた。


 二人の身体が一つになり激しく波打つ。


 二人の身体が汗にまみれ、激しく上下する。


 もう何も考えることなどできなかった。


 全身の肌が嵐になぶられる木の葉のようにざわつき、荒い呼吸が止まった瞬間、目の前が真っ白になり、胸の奥で熱い爆発が何度も起きた。

 ぐううっ、と大きく呻き声を上げたその人は、私をきつく抱きしめたまま、身体を何度も大きく脈動させた。そして私の中心に向かって、激しく何度も何度もその熱い想いを放ち続けた。



 明くる朝、ベッドから降りてハンガーに掛けられていたブラウスを手に取った時、シーツに身を起こした神村が私に向かって静かに言った。

「僕にやらせて」

 彼は何も身につけないまま私に近づき、ブラウスを羽織らせると、ゆっくりと一番上のボタンに手を掛けた。

 そして神村は黙ったまま最後までボタンをかけ終わると、一つ小さなため息をついて振り返り、ベッドに残された下着を穿き、壁に掛かった自分の服を身につけ始めた。私もそれから何も言わずにショーツを穿き、脱いでいた服を着直した。

 

 

 私はスーツ姿に戻った神村の、その首に結ばれた真新しいネクタイを軽く整え、その目をじっと見つめながら言った。「わたし、今月いっぱいで仕事を辞めることに決めました」

 神村は驚いた風でもなくふっと微笑んで、私のセーターの肩に着いていた糸くずを払いながら言った。

「そう。彼の元に帰るんだね」

 私はこくんと頷いた。

「あなたも、ご家族の元に」

 神村は少し寂しげに笑った。「そうだね。僕の帰るところはそこしかないね」

 しばらく黙ったまま温かい光の宿った瞳で私の目を見ていた神村は、少し顔をうつむけて決心したように言った。「シヅ子ちゃん。最後に大切な話があるんだ」

 

 

 神村はソファに私を座らせ、センターテーブルを挟んで相対した。

 彼は薄い青緑色の封筒をテーブルに置いた。その角は少しへたって折れ曲がっていた。

「いいかい? シヅ子ちゃん、よく聞くんだよ」

 私は不安げな色を隠そうともせず、向き合ったその男性に目を向けた。

「僕には君の身体を守る義務があった。でも、今までそれをしてこなかった」

「え? どういうことですか?」

「君と愛し合う時、僕はずっと避妊をしてこなかった。男として失格だ」神村は肩をすぼめ、うつむいた。

 私は膝に揃えて置いた手を思わず握りしめた。

「大阪に帰ったら、すぐに婦人科に行って、診察してもらいなさい」

 彼はテーブルに置いた封筒を私の前に移動させた。

「そ、そんな、神村さん」慌てて顔を上げた私の言葉を遮って、神村は強い口調で言った。「これは上司としての命令。君に断る権利はない!」

「神村さん……」

「もし、これまでの僕との行為で君が妊娠していたなら、すぐに連絡してくれ」神村は深い色の宿った瞳をこちらに向けて続けた。「僕は君の愛する彼に、これまでの君との関係を包み隠さず打ち明けて、全力で謝る。その時殴られても蹴られても構わない。そして彼の許しが得られたなら君の妊娠中絶について話し合うつもりだ」

 

 私はしばらく目を上げることも口を開くこともできなかった。

 

 神村は出し抜けにテーブルに手をついて深々と頭を下げた。「すまない。本当はもう二度と君に会ってはならないんだが、君の気持ちも身体も完全に元通りにして彼の元に帰るようにしてあげるのが僕の義務だし罪滅ぼしとも言える。だからもし妊娠していたら必ず責任を取る」

 

 私はようやく顔を上げた。

「……わかりました」

 神村もゆっくりと顔を上げた。

「診察の結果は、すぐに必ず貴男に連絡します」

「うん。そうしてくれるとありがたい」神村は小さくほっとため息をついた。


「わたし、もうたぶん一生不倫することはないと思います」私はぽつりと言った。

「……」

「あなたとの関係は、わたしにとってもやっぱり過ち。二度とやってはならないこと。つき合ってる彼がいてもいなくても」

「その通りだね……」

「貴男も、もう二度とわたしのことは思い出さないで」私はまたうつむき、テーブルに置かれた青緑色の封筒に視線を落とした。


「いや。忘れない」神村は決意したように言った。

 私は思わず目を上げて神村の顔を見た。


 神村は真剣な顔で私の目を見つめ返し、はっきりとした口調で言った。「忘れてしまったら、僕はまた同じ過ちを犯してしまう」

「神村さん……」

 そして彼は一転優しい口調で躊躇いがちに言った。「君も忘れないで欲しい。彼の手を永遠に離さなくて済むように」


 私は観念したように言った。「わかりました」


 神村は立ち上がった。「さあ、君は先にここを出なさい。僕と一緒にいたことが発覚しないように」

 私はテーブルの封筒を手にとって立ち上がった。

「今まで、ありがとうございました」

 そして神村に向かって深々と頭を下げた。


 部屋の狭い入り口のドアの前に立った時、私の胸の中から、突然熱い塊が喉元まで上がってきた。そしてこらえていた涙が堰を切ったように私の双眸からあふれ出し、ぱたぱたと音を立てて床に落ちた。


 いきなり神村が私の身体を背中から抱きしめた。苦しいぐらいに固く、お互いの最後の温かさを確かめるように。

 彼は背後から私の耳に口を近づけ、少し上ずった声で小さく言った。

「しあわせに……なるんだよ」


 いつまでも私の身体を放そうとしない神村は、まるで迷った子犬のように細かく震えていた。


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