Chocolate Time 外伝 Hot Chocolate Time 3 (第3集) 第1作

鍵盤に乗せたラブレター

《7.想いの詰め合わせ》


――明くる日曜日。


 学校のプールに勇輔と冬樹の二人だけがいた。

「やった、また穿けた、勇輔の水着」

 冬樹が顔を赤らめて自分の姿を壁の大きな鏡に写した。

「そんなに好きか? その水着」

「もちろん。だって勇輔が穿いてたものでしょ」

「しょーがねーなー。おまえにやるよ、それ」

「ほんとに? やった! 嬉しい。ありがとう、勇輔」

「おかげでもう一枚買う羽目になっちまった。高えんだぞ、それ」

 勇輔も同じデザインの水着を身につけ、冬樹の背後に立っていた。

「ごめんなさい。今度何かおごるから」

「気にすんな」勇輔は笑った。「にしても、おまえ、意外に筋肉質だよな。泳げば結構速いんじゃね?」

 そう言いながら勇輔は両手で冬樹の二の腕を掴んで揉んだ。

「泳ぎは苦手」

「教えてやるよ」

「お手柔らかに」冬樹はにっこり笑って顔を後ろに向けた。

 勇輔はその頬を両手で包み込んで、そっと唇同士を重ね合わせた。

 プール棟の向かいに建つ芸術棟二階。その音楽室の窓から見ている二つの影があった。

「あんなとこ、誰かに見られたりしたらどうするんでしょうね? 先生」うららが大きなため息をつきながら言った。

「大丈夫。プールの窓の中を見られるのはここからだけだから」彩友美は腕を組んでにこにこ笑っている。「でも、若い恋人同士って、たとえ男の子でも爽やかできれいね」

「そう……ですか?」うららはその音楽教師の顔を怪訝そうな表情で見上げた。「冬樹はともかく、あのがさつな兄貴が? きれい?」

「お似合いだと思うわよ、あの二人」

「うわあ!」窓の中に目を移したうららが不意に大声を出した。

「ど、どうしたの?」彩友美はうららに顔を向けた。

「兄貴のあんな笑顔、久しぶりに見た」うららは目を輝かせている。

「そうなの?」彩友美もうららの視線をトレースした。「あら、素敵な笑顔! 勇輔君って、笑うととってもかわいくて素敵ね!」

「ほんと久しぶり」

「前にもあんな顔で笑ったことが?」

「兄貴が小学校三年生の時、ずっと欲しがってた自転車を買ってもらった時に、あんな顔で笑ったんです。あたし今でもはっきり覚えてる」

「そうなの」彩友美もにっこり笑って、冬樹の肩を抱いてその目を見つめている勇輔の姿に目をやった。

 うららはほっとしたようにつぶやいた。「あの笑顔、全然変わってないよ」



「なかなか筋がいいぞ、冬樹」

 勇輔と冬樹はプールサイドに膝を抱えて座り、濡れた身体を寄せ合っていた。

「そう?」

「ああ。おまえのクロールのフォーム、スマートでしなやかだ」

「勇輔が教えてくれたからだよ」冬樹は照れたように、抱えた自分の膝の間に顔を埋めた。

 勇輔は後ろに手を突き、一つため息をついた。

「俺、昨日の晩、おまえと抱き合ったままイって思った」

「な、何? いきなり」冬樹は赤面した。

「やっぱ実際大好きなヤツと抱き合ってイくのと、一人でやってイくのっつーのは全く別モンだな」

「うん……それは僕もよくわかる」

 勇輔は冬樹に顔を向けた。「わかるだろ?」

「うん。射精するのが目的じゃない。勇輔との時は」

「だよな。俺も、セックスっつったら刺激して出して終わり、って思ってたが、違うね。おまえにくっついて、おまえの身体舐めて、口とか舌とか吸って、そんでもってぎゅってしがみつくのが最高に気持ちいい」

「そう、僕もそんなことをずっと勇輔にしてもらいたいし、僕も勇輔にしてあげたい」

 

 勇輔は冬樹の身体に腕を回した。

「今も、なんかすんげーいい気持ちなんだが、俺」

「僕も……」

 冬樹は頭を勇輔の肩にもたせかけ、目を閉じた。

 

「なあ、冬樹、おまえのピアノ、じっくり聞きてえよ」

 冬樹はにっこり笑って勇輔の目を見た。「勇輔はどんな曲が好きなのかな……」

「んーとな……、俺がおまえに声掛けた日に弾いてたやつが、なんか妙に頭から離れねえ。その後も何度か弾いてたぞ、おまえ」

「ベートーヴェンのソナタ嬰ヘ長調作品78」

 勇輔は驚いて目を見開いた。「お、覚えてんのか?」

「忘れないよ。勇輔に初めて声を掛けられた日だったんだから」

 勇輔は、へえ、と感心して唸った。

「あんな曲がいいんだね、勇輔は」

「なんか、明るくて、弾んでて、聞いててうきうきしてくるっつーか」

「わかる。あのソナタは2つの曲でできててね、どっちも幸せな雰囲気。第2楽章の方が弾んでるかな」

「あのいかめしいベートーヴェンでもあんな曲創るんだな、お……」

 勇輔は耳をそばだてた。冬樹もはっとして窓から芸術棟の音楽室に目をやった。

 

 穏やかに上昇する温かな和音に続き、微笑むような躍動感のあるピアノのメロディが聞こえてきたのだった。

ピアノソナタ第24番嬰ヘ長調作品78「テレーゼ」第1楽章(L.V.ベートーヴェン)

ピアノソナタ第24番嬰ヘ長調作品78「テレーゼ」第2楽章(L.V.ベートーヴェン)


「これだよ、これ!」勇輔が興奮したように言った。

「彩友美先生が弾いてくれてるんだ」冬樹は嬉しそうに目を細めた。

 見ると、音楽室の窓からうららが二人に向かってにこやかに手を振っている。

 冬樹もそれに応えて手を小さく振った。

 

「サブタイトル『テレーゼ』。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィックっていう女の人に捧げられたんだよ」

「恋人か?」

「そういう説もあるけど、深い仲ではなかったらしい」

「ふうん……」

「でもベートーヴェンはその女性の肖像画を死ぬまで大事にしてたんだって。彩友美先生に教えてもらった」

「わかんねえオトコだな、ベートーヴェンってヤツぁ」

 冬樹は噴き出した。「確かにね」

「今度冬樹がちゃんと弾いて聞かせてくれよ」

「わかった」冬樹はにっこり笑った。

 

 

 ――10月。

 秋風が並んで歩いていた冬樹と勇輔の頬を撫でた。校庭に落ちていた赤い葉が数枚、浮き上がって彼らの前をすっと通り過ぎ、そのまま空に舞い上がった。

「寒っ」思わず冬樹は勇輔に身を寄せた。

「お、おいおい、あんまりひっつくな。みんなに怪しまれっぞ」

 勇輔は赤くなって焦ったが、冬樹の身体を押しのけたりはしなかった。

 

「冬樹ー」

 背後から明るい声がした。二人はとっさに振り向いた。

 うららが息を切らして自転車を漕いでやってきた。

「なんだ、おまえか、妹」

「『なんだ』はないでしょ。それにあたしちゃんと『うらら』って名前がついてんだから、正しく名前で呼んでよね」

「おまえだって俺のこと『がさつな兄貴』とかって呼ぶじゃねえか」

 隣で冬樹がくすくす笑っていた。

「で、何か用か? 妹」

 うららはふくれて勇輔を睨みながら言った。「教えんの、よそうかなー」

「わーったよ」勇輔はいらいらして大声を出した。「悪かったよ、うらら」

 

 うららは一転にっこりと笑って冬樹と勇輔を交互に見た。

「あなたたち、静かなブームになってるよ」

「静かな?」

「ブーム?」

「そ」

「何だよ、それ」

「男同士の理想的なカップルだ、って」

「な! なんだと?!」勇輔がまた大声を出した。「し、知られてんのか? みんなに」

 うららは呆れたように言った。「雰囲気でバレバレだよ」

「や、やべーな」勇輔は慌てた「お、俺たち、な、な、何にもしてねえからな」

「自分で白状してるも同然だね。何かやってます、って」うららは涼しい顔で言った。「でもね、人前での態度が爽やかでスマートでかっこいいんだって」

「爽やか?」

「うん。なんかさ、男同士のカップルって、もっとこう、どろどろしてる、っていうか、なりふり構わず抱き合ったり、露骨にキスしたりするっていう先入観があるじゃん」

「あるんだ……」

「だけど、兄貴と冬樹、人前でそんなことしないし、逆にこそこそしたりもしないし、会話も結構オープンだし。ある意味みんなの目からウロコ落とした功績が評価されてるんじゃない?」

「なんじゃそりゃ」勇輔は呆れた。

「冬樹もあれから水泳部のみんなにかわいがられてるじゃん。三年の女子の先輩からも」

 うららは冬樹に目を向けた。

 冬樹は恥ずかしげに頭を掻いた。「そ、そうだね……」


「それに、兄貴がいつも冬樹を教室に呼びに来る時も、気負いなく気軽だしね。うちのクラスの男子にも女子にも、兄貴の好感度、かなり高いよ」

「そ、そうなのか?」

「うん。後輩の恋人をすっごく大切にしてる先輩、って感じがするんだって」

「な、なんでそんな感じがすんだろーな」

「直接声を掛けるからじゃない? メールなんかじゃなくて直接」

「しょーがねえだろ、こいつケータイ持ってねえんだから」勇輔は冬樹のこめかみのあたりを指で軽くつついた。

「今時珍しいよね。なんでなの? 冬樹」

 冬樹はあっさり答えた。「あんまり必要感じないし」

「へえ」うららは意外そうな顔をした。

「メディアを介したデジタルの文字だけじゃ想いは伝わらないよ」

「なんか難しいこと言ってんな、冬樹」勇輔が言った。

「そうだよね」うららがにこにこ笑いながら言った。「冬樹は想いを伝える方法、いっぱい知ってるもんね」

「なるほどな」勇輔もにやりと笑って冬樹の頭を撫でた。冬樹は顔を赤くして勇輔を見上げた。

 うららが言った。「そういう二人の仕草も、なんかほわんとしてて素敵なんだってみんな言ってた」

 勇輔も少し頬を赤らめて顎に手を当てた。「な、なんか褒められてねえような……」

「褒めてるんだよ」


 気がつくと、校庭の隅に溜まっている生徒や、テニスコートのテニス部員らが、こちらを見ながらにこにこしている。


「ね、誰もひそひそ怪しげな噂してる風じゃないでしょ?」

「い、行くぞ、冬樹。なんかいたたまれなくなってきやがった」

 勇輔は顔を赤らめ、冬樹の肩をぽんと叩いて、自転車を押しながら歩き始めた。

 冬樹もうららも続いた。


「ねえ、『シンチョコ』寄ろうよ」

「シンチョコに?」勇輔が言った。

「うん。いいでしょ? 冬樹も」

 冬樹はにっこり笑った。「いいよ」



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Simpson's Chocolate House

 すずかけ町の老舗スイーツ店『Simpson's Chocolate House』の駐車場を兼ねた前庭をぐるりと取り囲むように立つプラタナスの木の葉を、時折吹きすぎる風が数枚落としていく。

 

 入り口のドアのカウベルを鳴らして、勇輔と冬樹、うららの三人は店内に足を踏み入れた。

「そうか、もうすぐハロウィンだね」冬樹が言った。

 

 店を入ってすぐのところに、赤や黄色を基調としたリボンや色づいた木の葉をあしらってディスプレイされたコーナーがあった。大小のジャック・オ・ランタンも置かれている。

 

「来たなー」

 店の奥から明るい声がした。

「おっちゃん」勇輔が顔を上げてアトリエの中に向かって手を振った。

 

 

 テーブルに落ち着いた三人の前に水の入ったグラスを置いて、ケネスの妻マユミがにこやかな表情で言った。「いらっしゃい。何にする?」

「俺コーヒー。冬樹は?」

「僕もコーヒーで」冬樹はぺこりと頭を下げた。

「あたしはアプリコット・ティーをお願いします」

「はい。すぐ持ってくるわね」

 マユミが背を向けようとした時、うららが言った。「あ、マユミさん」

 マユミは三人に向き直った。「なあに?」

「入り口のところのハロウィンのディスプレイ、いい感じですね」

「でしょ?」マユミは笑顔を冬樹に向けた。「春菜さんプロデュースよ」

「え? 姉ちゃん?」冬樹はびっくりしてマユミを見た。

「さすがデザインの勉強しているだけあるわね。高校でも有名だったんでしょ? 勇ちゃん」

「そうっすね、俺みてえな水泳バカでもその名前、知ってましたから」

「専門学校卒業したら是非うちに就職して欲しいわねー」

 マユミはそう言い残し、にこにこしながらテーブルを離れた。


 うららが冬樹に向かって身を乗り出した。「ねえねえ、冬樹、あたし知ってるよ」

「え? 何を?」

 うららは勇輔の顔に目を移した。そして微笑みながら言った。「兄貴の写真、大切に持ってるんだよね」

「俺の?」

「兄貴の五月の大会での写真。水着姿の」

「そんな写真、どこで?」

「学校通信だよ。切り抜き。ね、冬樹」

「う、うん……」冬樹は照れくさそうに頭を掻いた。

「そーかー」勇輔は嬉しそうに笑い冬樹の肩に手を置いた。そして耳元で彼にだけ聞こえるように囁いた。「そいつでヌいてたのか? 冬樹」

 冬樹は赤くなって小さく頷いた。勇輔は思わず冬樹の頭を撫でた。


「うららさん、やっぱり見たんだ、あの時」

 うららはしまった、という顔をした。「ご、ごめん、冬樹、つい……」

 冬樹はにっこり笑った。「気にしないで」

「あの時、って?」勇輔が冬樹に顔を向けた。

「うららさんとの二回目のデートの時にね、僕が何気なくテーブルに置いた手帳にさ、勇輔の写真を挟んでたんだよ」

「冬樹がテーブルを離れた時に、ちらっと見ちゃったんだ」うららは舌をぺろりと出してばつが悪そうに頭を掻いた。


「今思えば最初から言っておくべきだったよね」冬樹が申し訳なさそうに言った。「うららさんの交際の申し込みに軽くOKしたりしてさ、変な期待、持たせることになっちゃって、ほんとに反省してるよ。ごめんなさい」

 冬樹は神妙な顔で頭を下げた。

「いいのいいの」うららは爽やかな笑顔で冬樹を見た。「結果的に良かったと思うよ」

「なんで良かったんだよ」勇輔が言った。

「付き合ってて別れたりしたら、気まずくて顔も見られなくなったり、最悪かえって険悪な仲になったりすることって多いでしょ? あたし、冬樹とはずっと仲良くしたいもん」

「なるほど」

「冬樹が兄貴と付き合っていれば、あたしも何かと関われるし。あ、下心あり過ぎ?」

 冬樹は勇輔とその妹の顔を見比べながら困ったように笑った。

 勇輔がうららを睨んだ「俺の冬樹に手ぇ出すんじゃねえぞ」

 うららは大笑いした。「あたしに冬樹を誘惑できるような魅力があると思ってる? 兄貴」

「ま、その心配はねえか。確かに」


「そう言えばさ」

 うららは上機嫌で目を輝かせた。

「二人のファーストキスって、いつだったの? やっぱりあの時? あたしが手紙を渡した」

 冬樹は赤くなって小さく頷いた。「そう。僕、もう死んでもいい、って思ったよ、あの時」

「そんなに?」

「まじかよ」勇輔は横目で冬樹を見た。

「一瞬気が遠くなってた。ほんとさ」

「ごちそうさま」うららが言った。

「僕が初めて勇輔と会話してから、18日目だったよ」

「おまえ、そんなの数えてんのか?」

「ちゃんと印、つけてるから」冬樹は手帳を持ち上げた。

「へえ!」うららは目を丸くした。「それ、日記も兼ねてるんだね」

 勇輔ははっとして冬樹の顔を見た。「じゃ、じゃあ、おまえ、その日の出来事なんかも、それに書いてんのかよ」

「うん。だいたいね」

「お、俺んちに泊まりに来た時のことも、書いてあんのか?」勇輔は赤面して早口で言った。

「内緒」

「うわあ、見たい見たい! 何て書いてあるの?」

「よこせっ!」勇輔は手帳を冬樹の手からもぎ取った。「俺が管理するっ」

「あははは、冗談だよ、兄貴。見ない見ない。安心して」



 勇輔は手帳を冬樹に返すと、妹に目を向け直した。「ところで、ここに何か用事だったのか? うらら」

「そうそう、今日発売の新製品を見せてくれるんだって、ケニーさんが」

「新製品? シンチョコの?」

「そ」

 うららはふんふんと小さく鼻歌を歌いながらおしぼりで指先を丁寧に拭いた。


 しばらくして、ケネスがトレイに3つのカップとチョコレートの箱を乗せてテーブルにやって来た。

「おっちゃん」勇輔が笑顔を向けた。

「こんにちは、ケニーさん」冬樹も小さく頭を下げた。

「おまえらに最初に食わしたる」

 そう言ってケネスは持ってきた箱を勇輔と冬樹の目の前に置いた。

「パッケージデザインは春菜さんやで」

「こ、これも姉ちゃん……」


 そのパッケージは全体が黒の半光沢で、箱の上面にピアノの鍵盤の写真が大きくプリントされた『Lover's Melody』という製品だった。

「ピアノだ……」冬樹はそれを見下ろして呟いた。

 勇輔が箱を手に取った。「これが新製品っすか?」

「新製品、っちゅうか、元々うちで出しとった商品の詰め合わせ、とも言えるわな。開けてみ」

 勇輔はプラスチックの包装をはがし、片側に開く蓋を開けた。「これもピアノの蓋みてえだ」

 中には鍵盤と同じ並びに細長いダークチョコレートとホワイトチョコレートが並んでいた。

「おお! これもピアノの鍵盤」勇輔が軽く仰け反って言った。

 ケネスはにやにや笑いながら言った。「白いのんは『ハイミルク・ホワイトチョコ』、ほんで黒鍵の部分は『ハイカカオ・ビターチョコ』や」


 勇輔と冬樹は顔を見合わせた。


「すごい!」うららが腰を浮かせた。「兄貴の好物と冬樹の好きなチョコの詰め合わせ」

「どや。おまえら見とって思いついたんや」

「素敵!」うららは過剰にはしゃいだ。

 勇輔と冬樹はそろって頬を赤らめていた。


「ま、ゆっくりしていき。そのチョコはおまえらにプレゼントしたる」

 ケネスはウィンクしてすたすたとテーブルを離れていった。


 見つめ合っていた勇輔と冬樹は、どちらからともなくテーブルの下で指を絡めて手を握り合った。


「いただきまーす」うららはそれに気づかないふりをして、紅茶のカップを口に運んだ。「おいしー」


「ん?」勇輔が鼻を鳴らした。「おい、うらら」

「なに?」うららは手を止めて勇輔を見た。

「ちょっとその紅茶、よこせ」

「な、なによ、飲ませないからね」

「そんなんじゃねえよ、その香りだ」

「香り?」

 うららはカップをソーサーに戻して、テーブルの真ん中ほどに移動させた。勇輔はそれを引き寄せて、鼻を近づけた。

「おお! 冬樹の匂い!」

「えっ?」その様子を目で追っていた冬樹がびっくりしたように声を上げた。

 勇輔は冬樹に顔を向け、息を弾ませた。「これだよこれ、おまえの匂い」

「冬樹の匂い?」うららはいぶかしげに眉間に皺を寄せて低い声で言った。

「そうだ。冬樹の体臭だよ。愛用のタオルからもこの匂いがしてた」

「へえ」うららは感心したように言った。「冬樹ってこんないい匂いがするんだね。気づかなかった」

「何つった? この紅茶」勇輔がカップをうららの前に戻しながら訊いた。

「『アプリコット・ティー』。あたしのお気に入りのフレーバー・ティーだよ」

「なんだよアプリコットって」

「アンズだよ。うちにもあるじゃん、アプリコットのお酒」

「そうだったっけか」


 うららはその紅茶を口に運んだ。「これ、勇輔兄貴のお気に入りにもなりそうだね」



 街全体の風景が彩度を落とし、淡いパステル画のような風情に姿を変えていた。街路樹もすっかり葉を落としている。よく晴れた土曜日の朝だった。道行く人々はコートの襟を立て、背を丸めて早足で歩いている。それでも開店準備に追われる軒を連ねたショップの店先には、近づくクリスマスに合わせて色とりどりの華やかなデコレーションが施されていた。


 ケネスは『シンチョコ』のアトリエで、朝の掃除をしていた。その時出し抜けに自分の名を呼ぶ大きな声が表から聞こえた。

「ケニー、開けろ! 開けやがれっ!」どんどんどん、と乱暴に勝手口のドアをノックしているのは、『酒商あけち』の主、大五郎だった。

 ケネスは慌ててドアを開け、負けずに大声を出した。「やかましわ! わいの店破壊する気かっ!」

「外は寒いんだよ! さっさと開けやがれってんだ。まったく」

 大五郎はそう言いながら遠慮なくアトリエに足を踏み入れた。


「どないしたんや、こないに朝早う」

「ほれ、おまえも食え」

 大五郎は手に持っていた二個のリンゴのうちの一つをケネスに手渡した。「源三おやじンとこからかっさらってきた」

「そうか、もうリンゴも入荷の盛りの時季なんやな」ケネスはそれを受け取りながら笑った。

 大五郎はアトリエの真ん中でそのつややかなリンゴにかじりついた。

「大五郎、おまえそのリンゴ食うためにここに来たんか?」

「ちげーよ。ちゃんと注文に来たんじゃねえか」大五郎は片頬で笑いながら言った。

「そやったら始めからそう言いや」


 大五郎はそばのテーブルに載せられていたティッシュをざかざかと勝手に取り出して口元を拭った後、口の中のリンゴをもぐもぐさせながら言った。「ケーキを一つ頼むわ」

「ケーキ?」

「そうだ。今夜パーティやっから」

「何の」

「冬樹の誕生日が今日なんだよ」大五郎はにっこり笑った。

「おお、そやったか」

「あの子、昨夜から泊まりに来てんだが、今日の店の棚卸し、手伝ってくれててよ」

「こない早い時間からか?」

「ああ」

「ほお……」ケネスは感心したように腕を組んでうなずいた。

「先週も店の手伝いしてくれたんだぜ。いい子だよ」

 ケネスはその厳つい風貌の大男を斜めに見ながら少し声を潜めて言った。「大五郎、おまえ平気なんか? 息子に彼氏ができたこと」

 大五郎は肩をすくめた。「ヤツが女連れ込むより安心だよ」

「なんでや?」

「どんなに乳繰り合ってもデキたりしねえじゃねえか」

「それが理由かいな」ケネスは呆れ顔をした。

「カミさんが特にお気に入りなんだよ」

「そうなんか?」

「ああ。こんな息子が欲しかった、って言ってな。横で勇輔がふて腐れてら」


 ケネスはアトリエの中に響き渡るほど大笑いした。


「ほたら、腕によりかけて作ったるかな、ザッハトルテ」

「ザッハトルテ? なんだ、それ」

「チョコレートケーキの王様やんか。覚えとき」

「冬樹、甘いのあんまり好きじゃねえって言ってたぞ」

「大丈夫や。冬樹仕様でリッチカカオ・チョコ使うて、甘さを控えめにしたる。それに」ケネスはウィンクして続けた。「ザッハトルテに欠かせへんのんは、アプリコット・ジャムや」

「アプリコット?」

「そや。この香りは勇輔が大好きなんやで。これも覚えとき」

「なんでそんなのが好きなんだろうな、勇輔のヤツ」

「本人に訊いてみ」ケネスは意味ありげに笑った。「そやけど、」

「何だよ」

「いきなり今夜のケーキをその日の朝に注文するやつがあるか? もっと早うにアポとらんかい。まったくお前らよう似た親子やな」

「いいだろ。ちゃんと金払うんだ。文句言うな」

「ま、こないだおまえにワインサービスしてもろうたからな」ケネスは肩をすくめた。「パーティ何時からや?」

「6時開会だ」

「それに合わせて届けさせるわ、健太郎に」

「『居酒屋らっきょう』に届けてくれ」

「『らっきょう』でパーティやるんか」

「冬樹のお気に入りなんだよ、あの店」大五郎は食べ終えたリンゴの芯を、ドアの横のゴミ箱にぽい、と投げ入れた。「じゃ、頼んだぜ、ケニー」

 そしてその酒屋の主は右手を軽く上げてアトリエを出て行った。


「さて、ほなさっそく仕込まなあかんな」

 ケネスは腕まくりをして、ストッカーからアプリコット・ジャムと『酒商あけち』から仕入れたラム酒の瓶を取り出した後、大きな冷蔵ケースにずらりと並んだ容器からいくつかのクーベルチュール・チョコを選び始めた。


――the End

                                                                                  2014,10,12 脱稿

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《あとがき》

 ある知人の女性が言っていました。BLのラブシーンはアナル・セックスが必須だと思っていた、と。

 物語中でケネスが語っている通り、男同士のセックスでは、必ずしもいつもそうやって「つながる」行為に至る訳ではありません。お互いに手や口で刺激し合ってイくという方法をとる方がはるかに多いのです。もちろんAVや漫画、小説などでBLを描く場合は、男女のセックスのように入れて入れられて結ばれ、一緒に快感を得る、というシチュエーションの方が受け取る側からすれば興奮するし、ドラマチックでもあります。でも僕はこの話の中ではそれを敢えて避けました。

 今回のこの物語も全くの作り話ですから、若い二人の高校生が重なり合って、深く繋がって、激しく興奮しながらイく、というシーンを描いてもよかったわけですが、そういう濡れ場だけが浮いた感じになるのが、僕には抵抗があります。読者の目をそのシーンにだけ向けることを意図するよりも、主人公がある人を好きになる、という気持ちの揺らぎや熱さの方を重点的に描いて、比較的『ありがち』な展開で話を進めていきたいと思ったわけです。

 それでも、ここに描かれていることが実際に起き得るかというと、そういうわけでもないでしょう。息子がゲイだと知って動揺し、拒絶反応を示す親の方が圧倒的に多いでしょうし、学校のプールを私的にしかもラブシーンの場として使用することもきわめて難しいと思います。

 一つの物語を考え、その世界を描いていく時に、その「あり得そうにない」ことと「あり得そうなこと」のバランスをどうとっていくか、ということを常に考えるようになりました。いっそ極端なファンタジーにしてしまうか、反対にドキュメンタリー風の現実味溢れる物語にしてしまった方が楽と言えば楽です。僕はその微妙なせめぎ合いの中で、読者が、ああ、こういうこともあるかも、そういう考え方もあるよなあ、と思ってくれることを実は密かに期待しています。それは言い換えれば『新鮮味』とも言えるかもしれません。まあ極論すれば、そのへんにあるようなありきたりの話を書くのが嫌だ、ということなんですけどね。そのくせ僕の作品には奇を衒った、大どんでん返しの仕掛けがないという特徴もあり、なかなか読者の期待に添わない展開になっているのも事実です。

 ちょっと専門的な話で恐縮ですが、冬樹が勇輔を想って弾いていた『テレーゼ・ソナタ』。ドイツの大作曲家L.V.ベートーヴェンの作品ですが、この曲の調子が『嬰ヘ長調』。何と楽譜の最初にシャープが6つもついているという変わった曲です。だから一番最初の和音を鳴らすために押さえる鍵盤は、全部黒鍵なのです。冬樹はベートーヴェンを好んで弾いていましたが、音楽教師、鷲尾彩友美も音楽大学時代はベートーヴェン弾きとして名を馳せたピアニストでした。

 さて、この『Chocolate Time』シリーズ、いつの間にかすずかけ町でケネスが経営する『Simpson's Chocolate House』が話のホームグラウンドになってしまっています。この町でいろんな恋人たちがいろんなカタチの恋をするのを、この店が温かく見守り、包み込むという、考えてみればタイトルの『Chocolate Time』に相応しいシリーズになっていることに、僕自身ちょっと驚いているところです。