Chocolate Time 外伝第3集 第6話 そば屋でカレーはアリですか? →目次に戻る

 

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八《氷解》

 話を聞き終わった嶺士はひどく切なそうな目をして横に座った亜弓の目を見つめた。

 シンチョコの喫茶スペース。テーブルに向かって並んで座った嶺士と亜弓、その向かいにユカリとマユミ。

「亜弓……誤解してすまなかった」

「ううん、誤解なんかじゃない。あたしが智志君と浮気しちゃったのは事実だし……それに、あなたにすぐ正直に話さなかったあたしが悪いの。赦して、嶺士」

「いや、おまえの判断は正しい。この事実をあのすぐ打ち明けられても、俺逆上していて本気にできなかっただろうからな」

「頭を冷やす時間が必要だったってことね」前に座ったマユミが言った。

「だけど」ユカリが遠慮なくため息をついて、飲んでいたコーヒーのカップをソーサーに戻した。「そのせいであたしは昨夜嶺士にレイプされたのよ」

「レ、レイプなんかしてないだろ! どっちかって言うと俺の方が……」嶺士は真っ赤になった。そしてすぐに横にいる亜弓の手を取り、眉尻を下げて言った。「ご、ごめん、亜弓、俺、ユカリを勢いで抱いてしまった」

「知ってる」

「へ?」

「ユカリ先輩が気遣ってくれて、そういう流れに持ち込んでもらった、ってとこかな」

「な、なんだって?!」

「言ってみればグルなのよ、あたしと亜弓」

 亜弓が申し訳なさそうな目を嶺士に向けた。

 ユカリが言った。「嶺士が自棄になって誰か他のオンナとそういうコトになれば、お互い様ってことで気が楽でしょ?」

「なにい?! おまえそういう企みが……」嶺士はユカリを睨んで歯ぎしりをした。そして亜弓に目を向け直し、言った。「亜弓は知ってたのか? ユカリがそういうつもりでいたってこと」

「ユカリ先輩、昨夜ホテルから電話して教えてくれたの」

「おまえ、それ聞いて何ともなかったのかよ」嶺士は早口で言った。

「ユカリ先輩じゃなければ暴れてたかも」

「な、なんだよそれ」嶺士は面白くなさそうにはあ、とため息をついて椅子に深く座り直した。

「まんまと引っかかっちゃったわけね、嶺士君」マユミがにこにこしながら言った。「やっぱり後ろめたい?」

「当たり前だろ! 妻を差し置いて他の女と寝たんだから」

「それはあたしも同じ……」亜弓が小さな声で言った。

 ユカリが人差し指を立てて言った。「あのさ、あんたたちが浮気した智志やあたしはそば屋のカレーみたいなものなのよ」

 隣のマユミが思い切り変な顔をしてユカリに振り向いた。「何よ、その喩え」

「ひどくお腹が空いてる時に行きつけのそば屋に入ったけど、いつもとは違う味わいがほしくてついカレーを食べてしまった。でも、やっぱりそばの方が安心して食べられるから、次からはやっぱりそばにしよう、って後悔する、ってことよ」

「おもしろい」マユミが言って小さく拍手をした。

 亜弓が言った。「じゃああたしや嶺士はお互いにとってそばなんですね」

「そういうことね。でも、いつも同じじゃ飽きるから、肉とかエビ天とかのトッピングを変えたり、ざるにしたりするのよ。それでも元は同じ出汁だから食べた後の満足感や充実感はカレーの比じゃない。そうでしょ? 嶺士」

「昨夜のおまえは激辛カレーだったよ」嶺士が口を尖らせて言った。「でもユカリの言う通りかもしれないな。亜弓が一番満足する。抱いてる最中も、何より終わった後の余韻の気持ちよさが違うよ」

「あたしも」亜弓が恥ずかしげに言った。「嶺士じゃなきゃ反応しない場所がたくさんあるのに気づかされた」

 

「亜弓は嶺士以外の経験は何人?」ユカリがにやにやしながら訊いた。

 嶺士は固唾を飲んでじっと亜弓を見つめた。

「初めての人は短大の時の同級生」

「どんな人だったの?」マユミが訊いた。

「普段は静かな人だったけど、その行為は結構激しかったんです」

「気持ちいいsexだった?」

「初めての時はやっぱり痛くてだめでした。なんでこんなことするんだろう、ってあたし泣いてました」

 横の嶺士が切なそうな顔をした。

「あたしもそうだったなー。嶺士に初めて突っ込まれた時は痛くて痛くて、涙も出なかったわ」ユカリがわざと大きめの声で言った。

「わ、悪かったよ」嶺士がぼそりと言った。

 うふふと笑ってユカリが言った。「でも何度か経験するうちに、感じるようになっていったでしょ?」

「そうなる前に自然消滅しちゃいました」

「で、その次は?」

「この人です」亜弓は隣の嶺士の膝をぱんぱんと叩いた。「実は高校時代からずっとこの鶴田嶺士先輩のことが好きだったんですけど、高嶺の花、っていうか、あの頃からこの人人気者だったので、諦めかけてたんです」

「で、短大時代は違う男に走ったと」

「まあ、そんなところですかね。でもあたしがその人に本気になってないことがわかっちゃったんでしょうね、いつの間にかあっちからあたしを誘ってくれなくなりましたから」

「その人とつき合ってる時も、ずっと嶺士のことを想ってたわけ?」ユカリが訊いた。

「はい、心のどこかで」

 亜弓はにっこり笑って嶺士を見た。

「亜弓ー」

 嶺士は泣きそうな顔で亜弓を見つめた。

 亜弓はグラスのストローを咥えて、アイスココアを一口飲んだ。

「そういう嶺士君はどうなの?」マユミが嶺士に顔を向け直した。「ユカリと別れてからつき合った人がいるの?」

「俺?」嶺士は自分の鼻に人差し指を突きつけた。「俺は……」

「大学ってフリーセックスの温床でしょ?」ユカリが楽しそうに言った。「それにあんたその身体と高身長と泳ぎの評判で女が放ってはおかなかったんじゃない?」

「俺がそんなに女たらしにみえるっていうのか? ユカリ」

「見えるわね」

「で、」亜弓が嶺士の顔を覗き込んだ。「どうだったの?」

 嶺士は黙り込んで額に汗をかいていた。

「その様子じゃ一人や二人じゃ済まなかったみたいだけど?」ユカリが追い詰めるように言った。

「よ、四年間で五人……」

「な、なんですって?!」マユミが大声を出した。「やっぱり女たらしじゃない」

「すいません」嶺士はうなだれた。

「その話は初耳だな、あたし」

 亜弓が低い声で言った。

「あらら……出しちゃいけない話題だったみたいねえ」ユカリが口に手を当てて眉尻を下げた。

「すでに過去のことだからなっ」念を押してから嶺士は観念したように言った。「五人っていうのはつき合った数。長くて10か月、短くて半月」

「ちょっと待て」ユカリが右手を挙げて嶺士の言葉を遮った。「何、その『つき合った数』って」

「抱いた女の人は他にもいた、ってこと? 嶺士」

 嶺士は亜弓の表情が能面のようになっているのを見て息を飲んだ。

「ご、ごめん」嶺士は右手で額の汗を拭った。「合コンの勢いでやっちまったり、あっちから誘いかけてきてほいほいそれに乗ったりして、結局、えーっと……」

 嶺士は指を折り始めた。

「13人か14人ぐらいだったかな……」

「信じられない!」マユミが大声を出した。嶺士はびくんと肩を震わせた。

「ヤリまくりの大学生……」ユカリが静かに言ってコーヒーを飲んだ。

「すいませんすいません」嶺士はまた言ってテーブルに頭を擦りつけた。

「知らなかった……嶺士がそんな遊び人だったなんて……」

 亜弓が悲しそうに言った。

「でっ、でも、結婚してからは一度もないんだぞ」

「そんなこと当たり前でしょ」ユカリが大声で言った後、勝ち誇ったように顎を上げて目を細め、続けた。「じゃあ昨日のあたしが唯一の例外ってわけね」

「大学ん時はその子たちはどっちかって言うと身体目当てだった」

「最低」

「そ、そんなもんだろ? 男ってのは」

「ま、そうでなきゃ、そんなにとっかえひっかえ女は抱けないか」

「そのこと知ってたら、幻滅してこの人に告白したりしなかったんじゃない? 亜弓ちゃん」マユミが気の毒そうに言った。

 亜弓は嶺士の顔を見た。「あたしもそんな女の一人だったの?」

 はあ、と大きくため息をついて嶺士は言った。

「きれい事は言いたくないから正直に言うけど」

「うん」

「初めはそのつもりでおまえと付き合い始めたのは事実」一つ咳払いをして嶺士は椅子に座り直し背筋を伸ばした。「でもな、初めて抱いた時に、お、こいつは今までの女とは違うな、って思った」 

「ほんとに?」亜弓が意外そうな顔をした。

「うん。どこがどう、ってうまく説明はできないけど、なんかこう、しっくりくる、っていうか、ちゃんと収まるっていうか……」

「へえ」ユカリがカップを口から離して言った。「身体の相性って、あるわよね、確かに」

「やっと見つけたジグソーパズルの正解のピースって感じだな」

「なるほど」

「亜弓が俺にとってそれまでの女と決定的に違ってたのは、身体だけじゃなくてやっぱり気持ちだな」

「気持ち?」

「一緒にいると安らぐんだよ。ほっとできるっていうか……それまでの女とのつき合いは遊びでもあったけど闘いに近くて、エッチを始める時なんかプールのスタート台に乗ってる気分だった。でも亜弓の場合はすでに海の中にいて漂ってる感じ」

「それにしては激しいよね、いつも」亜弓が言った。

「あれはスキューバダイビングとかサーフィンみたいなものなんだよ」

「取って付けたように……」亜弓は笑った。

「俺より年下だけど、身も心も包み込んでくれる感じがしたのは亜弓だけだな」

「あたしとのエッチも闘いだったしねえ」ユカリは笑った。「つき合ってる時も昨夜も」

「嶺士君こんなこと言ってるけど、亜弓ちゃんはどうだった? 嶺士君と付き合い始めて」

「憧れの大好きな先輩と付き合えることになって、あたしもう夢心地でしたー」亜弓は胸の前で指を組んだ。「三度目ぐらいまで、デートではずーっとぽーっとしてました」

「四度目からは?」ユカリが意地悪く訊いた。

「四度目のデートで初めてあたしを抱いてくれたんですけど、すっごく優しくて、最初から最後までずっと気を遣ってくれたから、もっとぽーっとなっちゃいました」

「あーはいはい。ごちそうさま」ユカリが呆れた様に言った。

 「気持ちいいエッチだった?」

「そりゃあもう! でもそれは心理的なものが大きかったと思います。予想通りの優しくて紳士的な先輩だ、って」

「ああ、知らなくて良かったわね、大学時代の嶺士のこと」

 ふん、と鼻を鳴らして、赤くなった嶺士はテーブルの真ん中に置かれたチョコレートに手を伸ばした。

 

「マユミはさ、」ユカリが隣のマユミに目を向けた。「智志本人から聞いてたの? さっき亜弓が言ってたけど」

「うん。実は智志君、こないだ鶴田家に行く一週間ぐらい前にうちに来てね、あたしに相談してきたの」

「相談?」

 マユミは頷いた。「日本を出て行く前に嶺士の家に行くけど、もしかしたら嶺士に手を出してしまうかも知れない、どうしたらいい? って」

「はあ……」

「長い間会えなくなるから、嶺士には最後に会っておきたい、でもそう思ったら我慢できそうにない、って」

「で、あんた何て応えたの?」

「あたしもどうしたらいいかわからなかった。そしたら智志君、嶺士君の奥さんの亜弓ちゃんにこのことをうまく話しておいてくれないか、って頼んできたの」

「で、」亜弓が口を開いた。「あたしが智志君へのお土産を買いにここに来た時、マユミ先輩からそれを聞いたってわけなんです」

「ああ、なるほどね。だから亜弓は亜弓なりに考えてああいう行動に出たというわけね」

「でも、嶺士君」マユミが前に座った嶺士に目を向け恐る恐る訊いた。「あなた智志君の本当の気持ちを知ったわけだけど、親友として……」

 嶺士は肩をすくめた。

「大丈夫。亜弓のお陰で俺はあいつの親友でいられると思う。これからも」

 亜弓はほっとしたように目を閉じて息をついた。

「良かった……」

「結局あいつはバイセクシャルだったってことだろ? そういう人間って実はいっぱいいるんじゃね?」

「そうね」マユミが笑いながら言った。「うちのケニーもそうだからね」

「ケニーのようにあそこまでオープンにできる人は少ないだろうけどね」ユカリが言ってカップを口に運んだ。

 

「俺がそのターゲットになるなんて思いもしなかったけど、よくよく考えたら、人の好みっていろいろだし、好きになる相手が異性とは限らないよなあ、って思い始めたんだよ。さっき亜弓が言ってた通り」

「智志もほんとは直接あんたに想いを伝えたかったんでしょうね」ユカリがしみじみと言った。

「でも、肉体的な欲求が高まりすぎて、結局それができなかった」マユミが言って空になった嶺士のカップにデキャンタからコーヒーを注ぎ足した。

「あたしにいろいろ話して聞かせてくれた後、智志君、なんかとっても解き放たれた感じだった。嶺士も今まで通り智志君の親友でいてあげてね」亜弓が言った。

 嶺士は何度も頷いた。

 

「あいつが俺に友情以上の気持ちを持ってるってこと、いつか告白してきても、俺はそれを受け入れられそうな気がする」そして嶺士は慌てて付け加えた。「あ、受け入れるって、そっちの意味じゃないからな」

「わかってるよ」亜弓は笑った。「でも今一瞬、あたしあなたと智志君がハダカで絡み合ってるのを思い描いちゃった」

「いいね!」ユカリが身を乗り出した。「二人ともガタイいいし、画になる画になる!」

「ウケはどっちかな」マユミも目を輝かせた。

「嶺士がウケの方がおもしろそうですよね」亜弓も言った。

「おい!」嶺士が頬を赤く染めて会話を遮った。「いいかげんにしろ、おまえらっ」

「それにしても」ユカリが嶺士を指さして言った。「嶺士、あんた気づいてなかったの? 智志の熱い想いに」

「全然」

「そぶりとか視線とか、気づくポイントは少なくなかったんじゃない?」マユミが言った。

「こないだ家に来た時も結構秋波を送ってたよ、智志君。あたし何度も気づいたもん」亜弓が言った。「だから焦ったんじゃない、あたし」

「そ、そうなのか?」

「だんだん病的になっていってた感じ。客間で二人きりになった時に気づくでしょ、普通」

「そうか、二人きりになって俺を襲うつもりだったんだろうな、あいつ。危うくパンツ脱がされるとこだった」

「亜弓が身を挺して守ってくれたんだよ、あ・ん・た・を」ユカリが鋭く人差し指で嶺士を指さした。

「嶺士が智志君とカラダの関係になるのも嫌だったけど、そのことであなたたちの親友の関係が壊れるのはもっと嫌だった。でなきゃあたし、あんな決断しなかったと思う」

 嶺士は亜弓の手を取った。

「ごめんな、亜弓、辛い思いをさせて」

「ううん、嶺士とは比べものにならないけど、それなりに気持ち良かったから……」亜弓は小さな声で言った。

「亜弓ちゃんたら」マユミが上目遣いで困ったように言った。

「亜弓、しばらく嶺士に抱いてもらってなかったらしいからな」ユカリが嶺士を軽く睨んで言った。

 亜弓は慌てて言った。「あ、あなたのせいじゃないんだよ、嶺士。あたしがインランだっただけ……」

 嶺士は何も言わず亜弓の肩に手を置き抱き寄せた。

「ユカリも大変だったね、酔った嶺士君の相手して」

「いや、あたしも気持ち良かったから」

  亜弓もマユミもユカリも笑った。嶺士は肩をすぼめて頭を掻いた。

「あっ!」

 いきなり叫んだ嶺士の声にユカリは顔を上げた。「何? どうしたの、嶺士」

「ユカリ、おまえ昨夜言ってたよな、彼氏がいるって。なのに俺とあんなことしてもよかったのかよ!」

「今さら何言ってるの。それにあたしが彼氏持ちだって言った途端、あんた目の色が変わったじゃない」

「そ……」

「あれはあんたにあたしを抱かせるためのトリガーだったのよ」

「オスの闘争本能を引き出した、ってわけね」マユミが言った。

「そう。他のオスからメスを奪ってやるっていう野性の本能をね」

「そ、それはともかく、やばいんじゃないか? 俺、どうしたらいい? ユカリ」

 ユカリは呆れ顔をして言った。

「嘘ついたってこと、話の流れからわかるでしょ?」

「嘘?」

「そうよ。ほんっとに鈍い男。ちっとも変わってない」

 ユカリは軽蔑したように言った。

「つき合いたいっていう人はいるけどね。まだ恋人未満だから安心して」

「そうか……悪かった、ユカリ」

 嶺士ははあ、とため息をついた。

「ユカリ先輩、嶺士のカウンセリングの代金は……」亜弓が傍らに置いていたバッグを手に取った。

「嶺士からもうもらったからいいの」

「ちょっと待て」嶺士が眉間に皺を寄せた。「何だよ、カウンセリングって」

 亜弓は嶺士に目を向けた。「ユカリ先輩、臨床心理士だよ。知らなかったの? 嶺士」

 嶺士は腰を浮かせてユカリを指さし、大声で言った。「ええーっ? おまえが? そのがさつな性格でか?」

「またひっぱたいてやろうか?」

 マユミが言った。「今は総合病院で働いてるんでしょ? ユカリ」

「そ。もう5年になるかな」ユカリは肩をすくめてカップをソーサーに戻した。「だれもが嫌がる未成年担当。毎日一癖も二癖もあるガキどもとバトルを繰り広げてるわ」

「知らなかった……」

 「だから今回の嶺士のケースなんて得意中の得意」

 嶺士はユカリを睨み付けた。「ガキ扱いかよ……」

「昨夜はあんた、ほとんど未成年のガキんちょだったじゃない。あははは!」ユカリは高らかに笑った。

 嶺士はひどく恥じ入って黙り込んだ。

「カウンセリング料はベッドで嶺士にたっぷりいただいたわ」ユカリはウィンクした。嶺士はますます身を縮め、顔中に冷や汗を掻いてちらちらと亜弓に目を向けた。

 亜弓はにこにこ笑いながら嶺士の太ももをぎゅっとつねった後、すぐに優しく手のひらでさすった。

 

「嶺士君、今回のこと、ケン兄とミカ姉さんにはいつ話すの?」マユミが訊いた。

 嶺士は額の汗をハンカチで拭いながら言った。

「今日訪ねることにしてる。スクールが終わって、四人で一緒に食事することになってる」

「そう」マユミはにっこり笑った。

「ケンジさんやミカさんにもいっぱい心配かけちゃったからね」亜弓が申し訳なさそうに言った。

 

 嶺士が亜弓の前に置かれたアイスココアのグラスを見て言った。

「ところで亜弓、おまえ今日はコーヒー飲まないのか? ここのコーヒー、おまえ大好きだろ?」

「今日はちょっと朝から吐き気がして、刺激物は避けようと思って」

 嶺士の顔が曇った。「吐き気? ま、まさか薬が効かないで妊娠したんじゃないだろうな?」

「バーカ」ユカリが言った。「妊娠したとしても悪阻が来るのはまだずっと後よ。ほんとに物知らずね、嶺士。別れて正解だったわ」

「容赦ない言い方」マユミが笑った。

「じゃ、じゃあ何なんだよ、亜弓」

「アフターピルの副作用だと思うよ。ちょっと長引いてる……」

「ノルレボの? ゴミ箱に捨ててあった?」

「あら、嶺士君よく知ってるじゃない」マユミが驚いたように言った。

「ゴミ箱、見たんだ」亜弓が嬉しそうに言った。「わざとわかるように捨ててたしね」

「なんだ、あれもおまえの策略かよ」

 嶺士は面白くなさそうに言った。

「智志とあんなことすることを想定して買ってたのか?」

「何言ってるの」亜弓は嶺士を睨んだ。「嶺士が盛り上がって訳わからなくなって直接中に出した時のために買い置きしてたの」

「やっぱりね。あたしの思った通り」ユカリが言ってコーヒーを口に運んだ。

 嶺士はばつが悪そうに頬をぽりぽりと掻いた。

「市立病院の和代先輩の勧めで処方してもらったの」

「海山和代に?」

 

 海山(みやま)和代というのは、マユミや亜弓と同じ水泳部のマネージャだった。亜弓が一年生の時に和代は二年生。ちっとも黙っていないおしゃべりでがさがさしたその性格から、部員にはのべつ鬱陶しがられていたが、成績優秀で頭が切れ、高卒後は医大に進み、今はユカリの勤務先と同じ市立総合病院の産婦人科で医師として働いている。

 

「近いうちにまた診てもらうつもり。薬がちゃんと効いているかどうか。この胃のむかむかも気になるし」

「それがいいな」嶺士は残っていたカップのコーヒーを飲み干した。

 ユカリが言った。「あたし明日仕事だから、朝からついでに言っといてやるわ、和代に」

「そうか。助かるよ」

  

――その夜

 嶺士は当然のように亜弓を求め、彼女もそれに応えた。

「ああ、気持ちいい! 亜弓、亜弓っ!」

「嶺士、イって、あたしの中で、お願いっ!」

「やっぱりおまえじゃなきゃだめだ。イ、イくっ! 出るっ!」

 

 びゅくびゅくっ。どくっ!

 

 そうしてそれから一晩平均二回ずつの激しいsexを二人は連日繰り広げた。正常位で、騎乗位で、後背位で、横になり縦になり、ベッドの上で転げ回りながら嶺士と亜弓はそれまでの身体の隙間や歪みを直すかのように何度も激しく求め合ったのだった。

 

 それが六日続いて七日目の晩。

 

 その日亜弓に生理が来た。

 その晩も亜弓に挑もうと張り切っていた嶺士は、全裸になったままベッドの上で気が抜けたように言った。

「しばらくお預けか……」

「残念でした」

「生理中はやっちゃだめなのか?」

 呆れたように亜弓は言った。

「ベッドが血だらけになって殺人現場みたいになっちゃうよ」

「そうか……」嶺士はふてくされたようにばたんと仰向けになった。

「少しインターバルを置こうよ。あたしけっこうへとへとなんだけど」

 嶺士はイライラしたように言った。「欲情してるんだよ、おまえに」

 亜弓は困ったように言った。

「ほぼ一週間、毎晩。それも平均二回。こんなこと今までなかったのに」

「生理が終わったらまたやるからな、連日」

「マジで?」

「俺の気が済むまで」

 亜弓は切なげに眉尻を下げ、申し訳なさそうに小さな声で言った。「もう嶺士ったら……」

 嶺士は亜弓の顔を覗き込んだ。「嫌か?」

 亜弓は頬を赤らめた。

「嫌なわけないでしょ」

 嶺士はその恥じらったような顔にまた欲情の度合いを強め、亜弓の身体をぎゅっと抱きしめた。「亜弓ー」

 亜弓は嶺士の耳元で蚊の鳴くような声で言った。

「口でやってあげようか?」

「いや、いい。かえって欲求不満になる。フィニッシュはおまえの中じゃなきゃ収まらないんだ。俺、何度でも抱き合って、繋がって亜弓の中でイきたい」

「ごめんね、嶺士。数日我慢して」

 嶺士はにっこり笑って頷いた。

 

「ねえ、嶺士」

「どうした?」

「ずっと聞きそびれてたことなんだけど……」

 「ん?」

 嶺士は肘を突いた左手で頭を支え、亜弓に向き直った。

「あたしと智志君が抱き合ってるの、あなたずっと見てたんでしょ?」

「ああ」

「どうして乱入して制止しなかったの?」

 嶺士は仰向けになり、上目遣いでしばらく考えた後、言った。

「俺もどうしておまえたちのあの現場をずっと見てただけで何もしなかったんだろう、って不思議に思ってた」

「あたし、気が気じゃなかったよ。嶺士が気づいて智志君に飛びかかって来るんじゃないかって」

「一つ言えることは、それが智志だったからだ」

「どういうこと?」

「俺の知らない男がおまえとやってたら間違いなく即座に乱入して引き離して、そいつを瀕死の状態まで追い込んでた」

「なんで智志君だと許せたの?」

「いや、許せてた訳じゃない。何て言うか……拳じゃなくて話で決着がつけられる相手だから、って思ったんだろうな。無意識に」

「そうなんだ……」

「もちろんあの時は嫉妬で身体の中が煮えくりかえっていたのも確かだけど」

「……そうだよね、無理もないよ」

 嶺士は亜弓の髪を撫でながら言った。

「それに、ずっとおまえの相手をしてやれなかったっていう後悔の気持ちもあって、いつになく乱れて喘いでるおまえが不憫でもあった」

「自分を責める気持ちもあったんだね、嶺士」

「おまえや智志に対しての怒りは、実は俺自身に向けて抱いてた感情だったんだよ、たぶん」

「ごめんなさい……」

「なんでおまえが謝る?」嶺士は亜弓の頬を両手で包み、自分に向けた。「謝らなきゃいけないのは俺だよ」

「でも……」

「なんか……あの時、おまえを抱いて繋がってる男が、いつの間にか俺自身とダブって見えてた。亜弓は俺に抱かれて喘いでるんだ、って錯覚してた。だから俺、頭と身体が混乱しちまって、いたたまれなくなって二階に上がったんだ」

 亜紀は涙ぐんで嶺士の胸に顔を埋め、くぐもった声で言った。

「ごめんね、嶺士」

「俺の方こそ」

 嶺士は亜弓の頬をそっと撫で、柔らかなキスをした。

  

「亜弓」

「ん?」

「明日さ、俺も早起きするから、一緒に朝メシ作ろうぜ」

 亜弓は怪訝な顔をした。

「え? なに、いきなり……」

「それから洗濯のやり方も」

「どうしたの? 嶺士、なんで急にそんなこと言い出すの?」

 嶺士はほんのり頬を赤らめた。

「またおまえが俺に愛想尽かして家を出ていった時に困らないようにだよ」

 亜弓は破顔一笑した。

「そういう理由? だったら教えない」

「なんでだよ」

「嶺士が家事に困ってあたしに泣きついてくることがなくなったんじゃ、家出する意味ないでしょ?」

「うそうそ!」嶺士は焦ったように言った。「じょ、冗談だって。お、おまえが具合悪くて寝込んだ時とかに、俺が代わりに家事ができるようにだよ」

 亜弓はじっと嶺士の顔を見つめ、数回目をしばたたかせた。嶺士は思わず目をそらし、小さな声で言った。

「も、もう家出なんかしないでくれよ。俺、おまえに愛想尽かされることなんか絶対しないから……」

 亜弓も小さな声で言った。

「あの時はあたし、あなたに愛想尽かしたわけじゃなくて、なんかこの家にいるのが苦しくて衝動的に出て行っちゃったの。ごめんなさい……」

 嶺士は眉尻を下げ、ふっと笑った。

「今回の事件で、俺、思った」

「何を?」

「洗濯や食事の仕度はもちろんだけど、いろんなことをおまえ任せにし過ぎてた、って」

「気にしないで。あたし専業主婦だし、そんなの平気よ」

「いや、なんか結婚してからずっと俺のペースでおまえを振り回してた感じがするんだ」

「そうなの?」

 嶺士は頷いた。

「自分は外で働いて、亜弓は主婦で家のことをやる、って当然のように思ってた」

「あたしは夫が家事を進んでやってくれるのをあんまりいいことだと思わないな」

「どうして?」

「だって、言ってみれば夫婦の分業でしょ? 妻に気を遣って夫が媚びるように家事をやるなんて不自然だよ。あたしは嶺士にそんなことをしてもらってもちっとも嬉しいと思わない」

「でも……」

「もちろん共働きになったら家事も二人でシェアするべきなんだろうけどね」

 亜弓は嶺士の手を握った。

「あなたがさっき言ってくれたように、洗濯のやり方とか、炊事とかのやり方を知ってるだけでいい。時々気が向いた時に手伝うぐらいでいい」

「そうなのか?」

「うん。家事自体を辛いなんて思ったことはない。でもそれがどういうことなのかを嶺士が知っていた方があたしは安心できる。そういうことでいいでしょ?」

 亜弓はにっこり笑った。

「わかった。それでいい。俺、しばらくおまえと一緒に家のこと、いろいろやって覚えるよ」

「あんまり詳しくなり過ぎないでね」

「どうして?」

「あたしのやり方にケチ付けられるのは嫌だもん」

「そんなに器用じゃないよ、俺」

 嶺士は笑った。

「あたしは嶺士が外で働いていることに感謝する、嶺士はあたしの家事を理解してくれる。要するにギブ・アンド・テイク。それでいいんじゃない?」

「ギブ・アンド・テイク。そうだな。それが大人の常識ってもんだな」

 亜弓は嶺士の裸の身体をぎゅっと抱きしめて、その胸に顔を埋めた。

「好き、嶺士」

「俺もだ、亜弓」

 嶺士は亜弓の髪を優しく撫でながら抱いた腕に力を込めた。