Chocolate Time 雨の物語集 ~雨に濡れる不器用な男たちのラブストーリー~
《3.同窓会》
――二日後の金曜日。
駅から出てくる雑踏をよけながら、亜紀はその中華料理店を目指した。
歩きながら彼女は、遼もこの会に参加するのだろうか、と考えたりした。小林から乱暴されそうになった時、助けてくれた遼は、つき合っていた頃と同じような目をしていた。思えば高校生の時からいつも優しく自分のことを見ていてくれていた。
彼から別れを告げられた時、どうして自分がうなずいてしまったのか、と亜紀は時折考えることがあった。しかしあれから三年が経ち、二人の間には少しずつ目に見えないものが、雪のように音もなく降り積もっているような感じがしているのも事実だった。
同窓会の会場に着いた亜紀を真っ先に出迎えたのは狩谷省悟だった。
「よお! 来てくれたな、亜紀ちゃん。待ってたんだぜ」
省悟は亜紀の手を引いて自分の席の横に座らせた。
「狩谷くん、久しぶりだね。元気だった? って、元気そうだね」
亜紀のグラスに省悟の手でビールがなみなみと注がれた。
「俺は元気が取り柄だかんな」省悟は笑いながらグラスを亜紀のそれに触れさせた。そして注がれたビールをごくごくと一気に飲み干した。
「亜紀ちゃんも飲めよ。せっかく来たんだから」
「う、うん」
「遼とは会ってるのか?」
亜紀はどきりとして伸ばしかけた箸を止めた。
「まだつき合ってんだろ?」
「……」
「どうした?」
「別れたよ。もうずいぶん前に」
「へ? そうなのか?」省悟は意外そうな顔をした。「なんでまた……」
「なんでだろうね……」
「自然消滅?」
「……そうかも」
省悟は亜紀に身体を向けた。
「じゃあさ、俺、今ここで亜紀にコクっていいか?」
「えっ?」亜紀はびっくりして省悟の顔を見た。
「今、フリーなんだろ?」
「そ、そうだけど……」
「再挑戦ってやつ?」
「なに、それ……」
省悟は少し照れくさそうに肩をすくめた。「高校ん時、遼と俺はおまえの取り合いになっただろ?」
亜紀は思わず省悟から目を背け、目の前のグラスに手を掛けた。「……そうだったね」
「あん時は遼がまんまとおまえをかっさらっていっちまって、俺は敗北した。だから再挑戦」省悟は亜紀の目を見つめた。「フリーなんだろ? 今は」省悟は念を押すように言った。
省悟はそれから、一度も席を立たず、他の参加者ともほとんど口をきくことなく亜紀を口説き続けた。亜紀は初め、そんな省悟を鬱陶しく思っていたが、酒を勧められ、甘い言葉を囁かれ、絶妙なバランスで押されたり引かれたりするうちに、亜紀は次第にこの男性に甘えたいという気持ちになっていった。それは数日前部長の小林に乱暴されそうになった時の心の動揺を鎮めたいという意思も少しばかり働いていた。
だが、自分の本心はこことは別の所にある、ということも亜紀自身解っていた。
省悟は、会がまだ盛り上がっている最中に、亜紀の手を取った。亜紀は少し足をふらつかせながら、省悟の腕につかまってよろよろと立ち上がった。
「亜紀のやつ、飲み過ぎたみてえだから、俺、送ってくよ」
近くで焼酎のお湯割りを飲んでいた男友達にそう小声で告げると、省悟は亜紀を連れてその会場を後にした。
省悟に肩をもたせかけながら亜紀は歩いた。半分閉じたとろんとした目は、歩く先のアスファルトに向けられていた。
「大丈夫か? 亜紀ちゃん」
「うん、うん、大丈夫だよ」
点字ブロックに足を取られて亜紀がよろめいた。省悟はとっさに彼女の肩を抱きかかえた。亜紀は上気させた顔を省悟に向け、うつろで悲しそうな瞳でその同級生を見つめた。「あ、ありがとう……」
省悟は意を決したように亜紀の耳元で囁いた。「どこかで休もうか?」
亜紀はコクンとうなずいた。
大きなベッドのそばに亜紀はじっと佇み、うつむいていた。省悟は背後から彼女をそっと抱いた。
亜紀は動かなかった。
腕を解き、省悟は亜紀の身体を自分の方に向けた。そしてその潤んだ瞳を見つめ、頬を両手で包み込んだ。
「亜紀ちゃん……」
省悟はゆっくりと亜紀の唇に自分のそれを近づけた。
◆
「なんだ、遼、今頃」
同窓会は大いに盛り上がっていた。会場内は喧噪に包まれ、中華料理特有の油とショウガとニンニクの匂いが遼の鼻を刺激した。
「よし、座れ」遼の腕を掴んだ当時の同級生、春男が、酔って加減を知らない力で遼の背中を叩いた。「久しぶりだな、遼。元気だったか?」
遼は空いた席に無理矢理座らされると、当時学校で生活委員長を務めていた和美がすぐにグラスを運んできた。「秋月くん。待ってたのよ。さあ、飲んで」
和美は遼のグラスにぬるくなったビールをなみなみと注いだ。「亜紀とは一緒じゃなかったのね」
春男が言った。「おまえ達、うまくいってんのか?」
遼は一瞬口ごもった後、できる限りの平静を装ってグラスに手を掛け、言った。「別れたよ。亜紀とは。もう三年になるかな……」
ビール瓶を持った和美が、ばつが悪そうに顔を顰(しか)めた。
「そうか。ごめん、無神経なこと言っちまって」春男は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「気にするなよ」遼はビールを一口飲んだ。
和美が去った後、遼と同じ学級委員長だった聡美がやって来た。「秋月くん」
「やあ、聡美。元気そうだね」
「やった! 私、秋月くんに会いたかったんだ」
「え?」
「どきどきする。甦るな、あの頃」
遼は意味がわからずどぎまぎした。「な、何のことだよ……」
「その鈍さ、当時から全然変わってないのね、秋月くん」
隣の春男が悪戯っぽく笑いながら言った。
「聡美、おまえに惚れてたんだぜ」
「ええ? そ、そうなのか?」
「知らなかったのはおまえだけだったけどな」
聡美が屈託のない笑顔で言った。「でも亜紀に取られちゃったね」
春男は黙り込み、眉間に皺を寄せてグラスを口に運んだ。
聡美は続けた。「でも、亜紀、さっきまでいたけど、いつの間にかいなくなっちゃったわね」
遼は、腰をもぞつかせて辺りをそれとなく見回した。
「どこ行ったのかな……、ねえ、真也くん、知らない?」
聡美は春男の向かいに座っていた背の低い真也に声を掛けた。
「え? 何を?」
「亜紀よ。どこ行ったのか知らない?」
真也はごま団子を頬張りながら言った。「亜紀なら省悟と一緒に出てったぞ」
「え?」聡美の表情が固まった。「しょ、省悟くんと?」
「そ。亜紀、飲み過ぎたから送って行くって」
遼は出し抜けに立ち上がった。
「お、おい、遼」春男がおろおろしながら険しい顔をした遼を見上げた。
「悪い、春男、俺、帰るよ」
「りょ、遼……」
遼は急ぎ足で会場を出て行った。
聡美は、ひどくばつが悪そうに春男に目を向けた。「私、なんかまずいこと言っちゃったみたいね……」
ごま団子を食べ終わり、紙ナプキンで口元を拭っていた真也が口を挟んだ。「遼って、亜紀とは別れたって言ってたけど、あの態度……」
春男が静かに言った。「やつの中には未練があるな、亜紀への。間違いない」
「あたし、情報持ってるよ」春男の背後から声がした。
春男は振り向いた。「何だ、愛子、どうしたんだ、いきなり首突っ込んできやがって」
「何よ。そんな鬱陶しそうに言わなくてもいいじゃん」
聡美が促した。「情報って? 愛子」
「うん。秋月くん、今月結婚するつもりだったらしいよ」
「ええっ?!」春男も聡美も真也も同じように大声を出した。
「な、何だよ結婚って」
「誰と?!」
「ずいぶんいきなりな話だな」
「去年の秋にお見合いして、つき合ってた女の人と」愛子が小さな声で言った。
「だったら、何だよ、今の遼の態度」
「破談になったって」
「はあ?!」
「いつ?」
「年末」
「そ、それもまたいきなりな話……」
「なんで愛子、そんなこと知ってるのよ」聡美が訊いた。
「その秋月くんのつき合ってた相手っていうのが、あたしの職場の同僚の友達だもん」
「へえ」
「だ、だけど、結婚を考えてたってことは、遼とその彼女、けっこうな仲になってたんじゃないのか?」
「それがねー」愛子が肩をすくめた。
「何だよ」
「デートを何回かしたらしいけど、秋月くん、手を握ったこともなかったんだって」
「はあ?」
「そんなのデートって言うのかよ」
「破談になったのも、彼女の方が、秋月くんの様子を見て、脈なしって思ったからなんだ。って言うか」
「え?」
「結婚するつもりでいたのは、秋月くんだけ。その彼女は、そんなことまでまだ考えてなかったんだって。秋月くん自身も、そのことはほとんど誰にも言ってなかったみたいよ」
「しかし、なんで遼のやつ、そんな相手と結婚しようなんて思ってたんかな」
「つき合ってたその人、ちょっとかわいそう……って言うか、かなり失礼な話だよね」
「でもよ、彼女の方はそのつもりじゃなかったんだろ? まだ」
「そうだね。軽く試用期間ぐらいに考えてたんじゃないかな」愛子がテーブルにあった大学芋に爪楊枝を刺して口に運んだ。「同僚が言うには、その彼女、それほど落ち込んでる風でもなく、結構さっぱりしてたって」
「ってことは、遼だけが何か思い詰めてた、とか……」
「亜紀のこと、何とかして忘れたかった……ってことなのかな」聡美が寂しそうに言った。
「でも、そう簡単にはいかなかった」
「さっきの秋月くんの態度見たら間違いないね。亜紀のことが忘れられないのよ、彼」
「ううむ……」春男が唸った。「確かにそれが一番納得いく理由」
「で、でもさ、」聡美が言った。「その亜紀は省悟くんと一緒だったんでしょ?」
「省悟って、亜紀をめぐって遼と戦ったんだよな、確か。高校ん時」
「亜紀は秋月くんを選んだけどね、その時……」
「省悟も諦めてなかったんだな、亜紀のこと……」
「……やばいな」真也が少し青ざめた顔で呟いた。
「歴史は繰り返す?」
「しゅ、修羅場になりそうな予感……」春男も低い声で言った。