Chocolate Time 外伝 第3集 第7話

そのチョコを食べ終わる頃には


《第1章》「その警察官、秋月 遼」  《第2章》「その秘密の出来事は」     《第3章》「そのチョコを食べ終わる頃には」   

第2章「その秘密の出来事は」 2

 鈴掛北中学校の応接室。

 修平は遼と利恵の顔を交互に見比べた。

「あれえ、遼先輩、篠原先生と知り合いだったんすか?」

「あ、ああ。ちょっとね」

「なんか充実した顔つきになっちゃって。警察官の制服がすごく似合ってて頼もしい。仕事も家庭もうまくいってるって顔ね」

「奥さんの亜紀さんとはラブラブなんすよ、俺ら夫婦もちょくちょくお邪魔して一緒に飲むんすよ」

「そうなの」

 照れたような遼の反応を見て、利恵は安心したように微笑んだ。

「秋月くん、仕事、途中で抜け出しても良かったの?」

「いえ、これも立派な仕事ですよ、先生。未来を担う子どもたちの安全と安心を守ることが僕らの使命ですから」

 利恵は感心して何度も頷いた。

「でも今日はこの打ち合わせが済んだら帰宅できることになってます」

「そう、ゆっくりできるのね」

「警察官も一介の公務員ですからね」遼はウィンクしてみせた。

 利恵は隣で話を聞きながらカップを傾けていた修平に目を向け、唐突に言った。

「実はね、修平先生、この秋月遼くんの童貞を奪ったのは私なのよ」

 ぶーっ! 修平はコーヒーを噴き出した。

「ちょ、ちょっと先生、こんな所で何てこと!」

 遼は慌てて腰を浮かせ、叫んだ。

 テーブルに身を乗り出して利恵は声を潜めて言った。

「ねえねえ、ここでの打ち合わせが終わったら、シンチョコに行かない? 久しぶりの秋月くんとの再会を味わいたいし、修平先生もそこんところの経緯、訊きたいでしょ?」

 修平はテーブルにこぼしたコーヒーをティッシュでせかせかと拭き取りながら、赤い顔をして大きく頷いた。

 

 すずかけ三丁目の中心にその『Simpson's Chocolate House』はあった。30年近く前にオープンしてすぐに評判になった。それは当時の初代シェフ、カナダ人のアルバート・シンプソンが腕の良いショコラティエであったこと、その妻シヅ子は大阪出身で愛想が良く、訪れた客の印象に残る個性的なキャラクターであったこと、それに何より当時日本では珍しかった「チョコレートハウス」であったことが大きな要因だった。若い女性だけでなく子供や大人の男女、年寄りのニーズに応える品揃えも奏功して多くのリピーターを獲得し、アルバートの息子、二代目のケネス・シンプソンは店舗を拡張して、現在は喫茶スペースやイベントホールを備えた、見た目もカントリー風の立派なスイーツ店に成長した。常連客がいつからか呼び始めた『シンチョコ』という愛称が今では通称になっている。

 

「へえ!」修平は大声を出した。「遼先輩の高一の時の初体験の相手だったんすか」

 シンチョコの喫茶スペース。モンドリアンの画の掛かった壁際のテーブルに修平と遼、向かい合って利恵が座っていた。

「もう初々しい秋月くんにきゅんきゅんだったのよ」

 遼は低い声で脅すように言った。「言いふらすなよ、修平」

「亜紀さんは知ってるんすか?」

「わざわざ話すか、こんな恥ずかしい過去」

「なんで恥ずかしいのよ。甘酸っぱい青春の思い出でしょ?」

「先生は当事者なんですよ? なんですか、その他人事みたいな爽やかな言い方」

「私と秋月くんがそんなことになった経緯を話してあげるわね、修平先生」

「ぜ、是非っ!」修平は色めき立った。

 白い湯気を立てているコーヒーを一口飲んで、利恵はゆっくりと口を開いた。

「私、あの実習の直前につき合ってた彼が大怪我しちゃったの。もう最悪の心理状態で臨んだ実習だったわ」

「大怪我?」

 利恵は一つ頷いた。

「そう。彼も大学には一浪して入ったから、私と同い年。大学で柔道やってたんだけど、練習中に投げ技をくらって脊柱を傷めちゃって、下半身不随に」

「ええっ! まじっすか?」

「今のダンナの剛」

「当時の彼って剛さんっていう人だったんですか……」

「あれ? 秋月くんは知ってたんじゃないの? 私のダンナの剛のこと」

「剛……さん?」

「そうよ、篠原剛」

「あ! 横浜の……」遼は少し考えて、すぐに思い立った。「剛にいちゃん? もしかして僕のいとこの?」

「そう」利恵はにっこり微笑んだ。

「そう言えば篠原姓になってますね、先生。へえ! 知りませんでした。今の今まで」

「私と彼、結婚してもうずいぶん経つのに? 聞いてなかったんだね、ご家族に」

「剛さんとは僕が小六の時を最後に会ってなかったし、そうか、高校の時、お袋が入院した甥の見舞いに泊まりがけで行った、っていうのはその剛さんのことだったんだ……」

「遼先輩はその剛さんが怪我をして半身不随になったことも知らなかったんすか?」

「聞いてなかった……と思う。たぶん。お袋からも姉貴からも」

「でもっすよ、」修平は利恵に目を向け直した。「当時の彼氏さんがそんな大怪我をしたんじゃ、実習とかやってる場合じゃ……」

「もちろんすごく落ち込んでたわね、私も彼も。でも実習が始まる頃には術後の経過も安定してて、秋月くんのお母さんや彼のお姉さんもついててくれたからある程度は安心だった。それに何より彼が言ってくれたの。先生になりたい夢を諦めるな、って」

「そう……ですか」

「幸いリハビリを続けるうちに今ではどうにか歩けるぐらいまでは回復したの。長くかかったけどね」

「そうだったんすか……旦那さん、そんな辛い目に」

「車椅子から解放されるまでに七年かかったわ。でね、私が秋月くんを誘惑した理由は、怪我をして不能になった彼に抱いてもらえない寂しさを埋めて欲しかったから」

「へえ、そうだったんすか……」修平は腕組みをして何度も頷いた。

「彼と秋月くん、ほんとによく似てるの。まるで兄弟のように。だから私剛さんと秋月くんを重ねて身体を慰めてもらったのよ。秋月くんには言わなかったことだけど」

「それが直接の原因なんすか?」

「たぶんね。でもそれを秋月くんに言ったら拒絶されちゃうでしょ? 剛さんの代わりに、ってことなんだから」

「いやいや、男を甘く見ちゃいけません、先生。男ってやつはもしそう言われたとしてもエッチできるとわかれば挑む動物です。そうですよね? 遼先輩」

 修平をちらりと見て、遼は申し訳なさそうに口を開いた。

「確かに……あの初めての時は、何て言うか、もうそのことしか考えてなかった気がする」

「そっかー、シャイで紳士な秋月遼くんでもそうだったんだね」

「私も人のこと言えないけどね」利恵はうふふ、と笑って続けた「抱いてくれるオトコがいなくなった途端、身体を慰めてくれない寂しさを強烈に感じたの。よく言うじゃない、子宮が疼くって、そういう感じだったのよね。私ってインランだったのかな」

 修平は大きく頷きながら言った。

「わかる気がする。うちの夏輝もいきなりサカリがついたように俺に襲いかかってくること、たまにあっからなー」

 遼は修平を軽蔑したように睨んだ。

「自分の愛妻を犬猫みたいに言うやつがあるか」

 笑いながら利恵は言った。

「後悔はしてないけど、失敗だったな、って思う」

「え? 失敗? どういう意味っすか?」

「結果的には秋月くんも警察官っていう立派な仕事をして警部補にまでなってるし、愛する奥さんと穏やかに生活できてるからね。そういう意味で後悔はしてない。でも、やっぱりあんな不純な動機でまだ何も知らない男子生徒を誘惑したのは失敗だった。今思えば性的虐待だもんね。18歳未満だったわけだし」

 遼は優しい目を利恵に向けた。

「お互い様です。先生。僕もそういうことしたい盛りの高校生でしたから。でも初めての女性が利恵先生で良かったって思います」

「そう?」

「毎回優しくしてくれたし、いろんなことを教えて下さったし」

「毎回? ってことは一度きりの過ちではなかった、ということっすねっ!」

「なんだよ、修平、嬉しそうに」遼はぶつぶつと低い声で言った。

「一体何回先生を抱いたんすか? 遼先輩」

 困ったように口をつぐんだ遼の代わりに、利恵が身を乗り出して修平に向かって小声で言った。

「一週目の土曜日が最初、その日にすでに二回イってくれたのよ」

「さすがヤりたいサカリの男子高校生っ!」

「大声出すなっ!」

「で? その後は?」

「翌週は二日に一度、最後の三週目はほぼ毎日だったわ。ねえ、秋月くん」

「そ、そうでしたね……」

「すげえ……羨ましいっすね、弱冠高一でそんな……。で、その度に二度三度発射してたんすか? 遼先輩」

「発射って何だよ。しかも二度三度って……」

 遼は真っ赤になっていた。

「当たらずとも遠からず、かな」利恵が言った。「慣れてきたらどんどん大胆になってきちゃって、ねえ、秋月くん」

「は、はあ……」

「私も何度もイかされちゃったわ」

「やるな……高校一年生の分際で」

 修平も顔を赤くして遼と利恵を交互に見た。

「ごめんなさい、先生……」

 蚊の鳴くような声で、遼が言った。

「エッチの教育実習だったってわけっすね? うははは!」

「大口開けて笑うな、修平!」

「でもね、それで秋月くんが私を好きになったらどうしよう、って悩んでたのも事実。実際どうだったの? 秋月くん」

 遼は小さなため息をついた。

「予想通り利恵先生のことはどんどん好きになっていってました。でも同時になんかもやもやした悩みも膨らんでいきましたね」

「悩み?」

「抱かせてもらって、身体の欲求を満たしてくれたことで人を好きになるのって、本当の愛情じゃないんじゃないか、って」

「誠実で真面目な遼先輩らしい。高校ン時からそんな感じだったんすねー」

「ごめんね、貴男の心を弄んじゃって……」

「そんなことないです」

 遼は恥ずかしげにうつむいた。

 利恵はカップを持ち上げ、香り立つコーヒーを一口飲んだ。

「先生は、あれから?」遼が訊いた。

「大学に戻ってすぐ、車椅子の剛さんと結婚することを決意したの。もちろん大学は卒業したし、教師の免許も頂いた。先生になったのは一年経ってからだったけどね」

「教員試験は受けられたんでしょう?」

「ううん、受けなかった。息子が生まれてすぐだったしね」

「坊ちゃんは先生が卒業した年に生まれたんすか?」

「そう。だから卒業した年は教員試験は受けずに子育て。だから、えっと……、私が教師になった年は秋月くんは高校三年生になってたはず」

 修平は遼を横目で見てにやにやしながら言った。

「遼先輩もその時はすでに亜紀さんとラブラブだったわけですしね」

「そうなの? 亜紀さんって今の奥さんよね? すごい。一途なのね」

 遼は頭を掻いた。

「じゃあ私のことなんか忘れ去ってたわよね」

「先生の今のお住まいは?」

「楓町」

「え? なんだ、すぐ近くじゃないですか!」

「そうね」

 利恵はにこにこ笑いながらカップを持ち上げた。

 

「おや、利恵先生やおまへんか。いらっしゃい」

 『シンチョコ』のマスター、ショコラティエのケネス(46)がテーブルにやって来た。

「お邪魔してます、ケニーさん」

 ケネスは利恵の隣に座った。

「学校も夏休みでんな。どうです? 羽伸ばせてますか?」

 利恵は苦笑いをした。「授業こそありませんけど、夏休みは研修とか会議とか部活とか、ここぞとばかりに入ってて、逆に落ち着かない感じですね」

「先生家業も大変やな。で、何の話してましたん?」

 修平がニヤニヤ笑いながら言った。「遼先輩の初体験の話っすよ、ケニーさん」

「おお! ええなええな! わいも混ぜてーな」

「あいにくもうその話は終わりましたっ」遼が赤くなって軽く抗議した。

「ご主人の剛くんは元気でっか?」

「はい。お陰さまで」

 遼が訊いた。「今、ご主人の剛さんはどちらに?」

「町の福祉協議会の事務所で働かせて頂いてるの。経理を担当してるわ」

「そうですか」

「結婚してこっちに住み始めてすぐ、ケニーさんのご紹介で就職したのよ。車椅子でも働ける所を苦労して探してもらったの。恩人よ」

「ケニーさんは顔も心も広いから」遼が言った。

 ケネスはにっこり笑って店の奥にいた妻のマユミに向かって叫んだ。

「マーユ、アーモンド入りチョコレート、皿に山盛り持ってきてくれへんか」

「なんすか、いきなり」修平が言った。

「褒められたら、何か出さなあかんやろ?」

 

 シンチョコ名物『アーモンド入りチョコレート』をつまみ上げて、利恵は不意に顔を上げた。

「そうそう、秋月くん、うちの息子がお世話になってるそうじゃない」

「え?」

「南中の剣道部。中二の遙生」

「ええっ?! 彼は先生の息子さんだったんですか?」

 利恵はにこにこ笑いながら言った。

「そうよ。ダンナが怪我する前に授かってたの。間一髪ってやつね」

「おお、それはよかったっすね」修平がコーヒーを飲み干した。

「お代わりどうや? 修平」

「あざーす。いただきます」

 ケネスは席を立ち、テーブルを離れた。

「でも、確か篠原先生にはまだ小学校に通ってない嬢ちゃんがいませんでした?」修平もチョコレートの包みを剥がしながら言った。「ずいぶん歳が離れてるっすね」

「そりゃそうよ。ダンナは七年間不能だったんだから。二人目の娘は体外受精でようやくできた子なのよ」

「体外受精?」

「ご苦労されたんですね……」遼がしみじみと言った。

「子供二人は欲しかったからね」

 利恵は何故かひどく切なげな目で向かいに座った遼を見つめた。

 デキャンタを持って戻ってきたケネスはその利恵のカップに先にコーヒーを注ぎ足した。