Chocolate Time 外伝 第3集 第7話

そのチョコを食べ終わる頃には


《第1章》「その警察官、秋月 遼」  《第2章》「その秘密の出来事は」     《第3章》「そのチョコを食べ終わる頃には」   

第2章「その秘密の出来事は」 3

 その日、帰宅した遼は、夕食のテーブルで亜紀と向かい合っていた。

「今まで黙っててごめん」

 遼はひどく申し訳なさそうに言った。

 いつになく神妙な顔をした遼を見て、亜紀は穏やかな口調で言った。

「遼はしょっちゅうあたしにそうやってごめん、って言うけど、意味もなく謝るのやめてね」

「え? で、でも」

「そんな昔のことまで遡ってあたし怒ったり不機嫌になったりしないよ」

 亜紀は遼の前にグラスを置いてビールを注いだ。

「つまり、貴男の初体験のお相手は、実は海晴お義姉さんじゃなくて、その利恵先生だった、ってことでしょ? どっちにしたって今のあたしとは何の関係もないじゃない。つき合う前のことなんだから」

「そりゃそうだけどさ……」

 遼は気まずそうに目をしばたたかせて頭を掻いた後、グラスのビールを一口飲んだ。

「海晴お義姉さんは知らないんだよね? このこと」

「う、うん」

「お義姉さんは貴男の童貞を奪ったって思い込んでるのよね。ちょっともやもやしない?」

「もやもや?」

「お義姉さんに嘘をついてる、ってことでしょ?」

「ま、まあね……」

「あたしから話しておいてあげようか? さりげなく」

「どういうきっかけで話すんだよ」

 遼は困った顔をした。

「ま、いずれね」

 亜紀は笑って箸を手に取った。

 

「あの当時、亜紀のクラスには授業に行ってなかったのかな、利恵先生」

「一年生の時は違う社会の先生だったからね。遼のクラスとは」

「実習生だった時からそうだったけど、今でも利恵先生は背筋が伸びててすごく姿勢がいいんだ。それにいつもにこやかな表情でしっかり目を見て話してくれるんだ」

「また抱きたくならなかった?」亜紀は悪戯っぽく訊いた。

 遼は赤くなって少し反抗的な目をした。

「ならないよ」

「昔好きだった女性との情事を思い出して、その時の身体の疼きが蘇る、ってドラマでよくやってるじゃない」

「ご心配なく。もうそんな気にはならないよ」

「そう。残念」

「なんだよ、残念って」

「どちらも家庭を持つ警察官と教師のダブル不倫。どきどきしちゃうな」

「君は二つの家庭を崩壊させる気?」

 亜紀は笑いながら生野菜にドレッシングを掛けた。

「でも、剛さんには申し訳ないことしちゃったな……」

「また謝ってる。なにを今さら……」

「だってそうだろ? あの時すでに先生が結婚の約束をしていた人なんだぞ」

「それを始めに聞いてたら、先生とそういう関係にはならなかった?」

 亜紀は悪戯っぽく訊いた。

「うーん……」

「男子高校生がそこまで冷静に考えて、目の前の据え膳に手を付けないなんてちょっと考えられないけど?」

「まあ、確かに……でもなあ、それが自分のいとこだって聞かされていたら、さすがに引いてたかも」

「考えてみればいろいろ奇遇なことが重なってるね。利恵先生は当時貴男が婚約者のいとこだってこと、知ってたのかな……」

 遼は皿の上のトマトに伸ばしかけた箸を止めた。

「それもそうだ……僕が秋月っていう名字だってことはわかってたわけだし……。ただうちが篠原家の親戚だっていうことをご存じだったかどうか……」

 

 亜紀は考えた。話を聞く限り、その利恵先生は早いうちから遼にアプローチしていたようだ。それはただの偶然だったのだろうか。愛する人に抱いてもらえなくなるという寂しさだけなら、男子生徒ではなく独身の教師か、一緒に実習をしていた大学生を狙っても良かったはずだ。それぞれにリスクはあるにしても、まだ青く未熟な、しかも未体験だった高校一年生の遼にわざわざ身を預けた理由が別にあるような気がした。

 

 

「あら、亜紀ちゃん。何?」

 亜紀は明くる日の朝、遼の姉海晴に電話をした。

「ちょっと遼のことで訊きたいことがあって。夕方お宅にお邪魔してもいいですか?」

「今日は午前中で上がるから、お昼に会おうよ。ランチ一緒にどう?」

「いいんですか? ありがとうございます」

 

 正午を過ぎた頃に三丁目の青葉通りアーケードの老舗イタリアンレストラン『アンダンテ』の、窓際に並んだ白いテーブルの一つで亜紀と海晴は向かい合っていた。

「ありがとう。予約してくれてたんだね」海晴がおしぼりで手を拭きながら言った。

「はい。ここは海晴お義姉さんもお気に入りだし、この時間結構混むから」

 店内はほぼ満席だった。平日のランチタイムには勤め人の姿も多かったが、時間に余裕のある主婦や学生など、女性を中心に常連客が連日のように店内を埋める人気店だった。

「最近来てなかったのよね。嬉しい。デザートに白葡萄のジェラード頼もうかな」

 おしぼりを軽く畳んで脇に置いた海晴は、亜紀に目を向けた。

「で、訊きたいことって?」

「はい。他愛もないことなんですけど……」

「うん」

「遼のいとこさんの剛さんって、どんな人なんですか?」

「剛兄? 横浜に住んでた?」

 亜紀は頷いた。

「遼からどの程度聞いてるの?」

 亜紀は左の手のひらに右手の人差し指をメモを読むように動かしながら言った。

「篠原家は横浜に住んでて、秋月家とは親戚関係。遼のお母さんも横浜出身でこの町の秋月家に嫁いだ。剛さんのお父さんが遼のお母さんのお兄さん。合ってますか?」

「間違いないわ。その剛兄の父親は正(ただし)って言うんだけど、剛兄が大学に入学すると間もなく家を出ていった。怪我をした時もその父親は姿を見せず、噂では違う女と暮らしているということだった」

「それって……」

 海晴は肩をすくめて続けた。「結局両親は離婚して、剛兄は母親と姉の三人で暮らすことに。ただ生活費をまともに入れてくれない父親だったらしくて、経済的にとても大変だったから、剛兄は授業料免除の手続きを取ったり、お姉さんに援助してもらったりして何とか大学に通い続けた。ところが彼が四年生の時、柔道の練習中に怪我をして下半身不随に」

「大学は卒業されたんですか?」

「ぎりぎりね。かなり大学からも配慮されたらしいわ」

 海晴はグラスの水を一口飲んだ。

「後で知ったことなんだけど、剛兄が怪我して入院した時、うちの母が何日か泊まりがけで世話しに行ってたみたい。お陰であたしと当時高一だった遼は無事姉弟相姦を完遂させた」

 海晴は笑った。

「お父様も単身赴任中って仰ってましたね」

「あたしたち姉弟がちっちゃい頃は剛兄もそのお姉さんもよく秋月家に遊びに来てたんだけど、父親の行いのせいで彼が大学に入った頃からずっと疎遠になってたのよ。剛兄と最後に会ったのはあたしが高三の時。弟の遼は小六ね」

「そうですか……だからあんまり情報がないんですね、篠原家の」

「その後、ずっとつき合ってた岡林利恵さんと結婚して、今はこの近くに住んでるらしいけどね、彼女が卒業した年に生まれた坊ちゃんと、その後生まれたまだ未就学児の嬢ちゃんの四人で」

「そのお相手の利恵さんって、あたしたちの高校に教育実習で来ていた大学生なんでしょ?」

 海晴は上目遣いで亜紀を見た。

「亜紀ちゃんは話したことあるの? その利恵先生と」

 亜紀は首を振った。

「いいえ。あたしのクラスには授業にも来られなかったし。就任された時と退任式の時に体育館で遠くから顔を見ただけ」

「そっかー。でも偶然親戚になっちゃったね」

「この町に住んでいらっしゃるんですね。それも奇遇」

「あたしもずっと知らなかった。教えてくれなかったからね。やっぱり父親があんな感じだったから、こっちの秋月家の敷居は高かったのかもね」

 海晴はグラスについた水滴を指で拭った。

「で、遼は知ってるって? 剛兄と、その実習生だった利恵さんが夫婦で、二人のお子さんと一緒にこの町にいるっていうこと」

 海晴はじっと亜紀の目を見た。

「はい。つい最近知ったって言ってました。こないだ利恵先生と再会して聞いたらしいです。坊ちゃんの遙生くんは南中の剣道部にいて、遼も毎週会ってます。あたしも何度か部活のイベントとか試合とかのお手伝いで参加した時会ったことがあるんです。明るくて元気な少年。遼に顔や仕草がよく似ててとても他人とは思えない」亜紀は笑った。

「そう! 遼は遙生くんと仲良しなんだ」

「遼は遙生くんに慕われてて、遼もとっても可愛がってあげてるみたい」

 海晴はにこにこ笑いながら身を乗り出した。

「まるで息子のように?」

「どうしたんです? 嬉しそうに」

「ううん。なんでもない」

 丁度ランチのサラダが運ばれてきた。

「そうそう、その剛兄も、遼にそっくりなのよ」海晴が言った。

 サラダのフォークを取り上げたまま、亜紀が顔を上げた。

「だから遙生くんも遼に似てるんですね。なるほど」

「会えばわかる。柔道やってたから剛兄の方がガタイはいいけどね、遼が太るか剛兄が痩せるかしたらもうそっくり。兄弟もかくやというぐらい似てる。ちっちゃい頃二人で遊んでると、ほぼ100%言われた、仲の良い兄弟ですね、って」

「そうなんだ……じゃあ無理もないかも」

「ん? どうかした?」

 海晴は口からはみ出していたレタスを指で押し込みながら訊いた。

「海晴義姉さんには本当のことをお伝えしなきゃ」

「本当のこと?」

「はい。実は遼にとってお義姉さんは初体験の相手じゃなかったってこと」

 海晴はひょいと肩をすくめた。「知ってるよ」

「えっ?」

「その利恵先生なんだよね」

「ご存じだったんですか。なんだ……」

 亜紀は拍子抜けしたように眉尻を下げて、フォークでミニトマトを皿の上で転がした。

「じゃあ、遼と利恵さんが実習期間中何度も繋がり合ったことも?」

 海晴は頷いた。「高一男子だから我慢できないわよね。エッチさせてくれる女の人が目の前にいれば、身体の欲求に任せて何度でも抱きたくなるでしょうしね。」

「遼って結構肉食だったんですね……でも、彼は利恵さんと最後に抱き合った時に、その剛さんと結婚の約束をしていることを聞いて、ショックを受けてたみたいです」

 海晴は、フォークではどうしても取れなかったガラスの皿の底に張り付いたレタスのかけらを指でつまんで口に入れながら言った。

「でしょうねえ。さすがに何度も抱いた女が他のオトコのものだったってわかっちゃったら引くわよねえ。しっかし、」海晴は身を乗り出し、小声で続けた。「考えてみたら遼の女性遍歴ってすごいよね」

「確かに」

「高一の初体験が教育実習の先生で、ほぼ同時に実の姉と三日連続で」

 亜紀は手に持ったフォークを止め、思わず顔を上げた。

「ええっ?! 三日連続? お義姉さんとは一度きりじゃなかったんですか? それは初耳」

「しまった!」

 海晴は思わず口を押さえた。

「ぎらぎらしてたんですねえ、当時の遼」

「ごめんね、遼から聞いてたのかと思ってた」

「全然平気です。ちょっとびっくりしちゃったけど」

「今はあんな風に紳士面してるけどね、そんな過去を知ったら引かれちゃうよ、絶対。亜紀ちゃんもその事実を知らなくてよかったね」

 笑い合う二人の前にメインディッシュのパスタが置かれた。

「そうそう、あたしからも遼の妻である亜紀ちゃんに教えとかなきゃいけないことがあるんだ」

「え?」

 亜紀はタバスコの瓶をテーブルに置き直して、海晴の顔を見た。

「実はね、遼が利恵先生とその時何度もエッチしたことで、」

 

 

 利恵が剛と結婚した年、二人の間に男の子が生まれた。遙生と名付けられたその子は現在鈴掛南中学校の二年生。剣道部に所属している。

 

「ケニーさん、こんにちは」

「おや、利恵先生、今日は一人でっか?」

「はい。お邪魔していいですか?」

「どうぞ。奥のテーブルに。いつものコーヒーでええですか?」

「恐れ入ります」

 

 窓際のテーブルに腰を落ち着けた利恵は、枯葉の舞い始めた外の風景を見るともなく眺めていた。

「お待たせ」

 ケネスがやってきて、カップを利恵の前に置いた。そして彼自身もテーブルの向かいに座り、自分のコーヒーカップを前に置いた。

「センセもこっちに来てもうどのくらい経つんや?」

「今年で13年ですね」

「そうか。そんなになるんやな」

「主人の仕事を探して頂いて、ほんと感謝してます」

「なんの。それくらい商工会の幹部としての当然の役割や。気にせんといて。そやけど、なんで横浜に住んでたあんさんたちがここに来ることになったんや? 剛くんの家は向こうやろ?」

 利恵は静かに言った。

「元々私はこっちの出身なので。それに夫がどうしてもこの町に住みたいと。剛さんのお姉さんが結婚されてお義母さんとは一緒に住んでいらっしゃるからそちらはお任せして……」

「ああ、利恵先生の実家は県北やったな」

「剛さんの親戚の秋月家もこの町ですし……。それに、私の大学時代、教育実習を受けてもらった高校もあるし……」

 途中で口をつぐんでうつむいた利恵を見て、ケネスは静かに言った。

「なんや話したいことがあんねやな? 利恵先生」

 利恵は申し訳なさそうに上目遣いでケネスを見て、小さな声で言った。

「さすが、鋭いですね、ケニーさん」

「こないだ修平と遼くんとうちに来た時から気にはなっててん」

 利恵は照れくさそうに頬を染めた。

「切ない顔やな。先生のそないな顔、あんまり見たことあれへん」

「秘密を自分だけの中に仕舞っておくのが苦しくなっちゃって」

「わいでええんか? その秘密を共有する人間」

「はい。お願いします」

 利恵は静かに頭を下げた。

 

 利恵の夫となることを約束した篠原剛は、中学時代から続けていた柔道でそこそこ名の知れた男だった。二人が交際を始めたのも大学二年生の時の合コンがきっかけだった。ところが、剛は大学四年生の秋、大会前の練習の最中に、投げ技を受けて受け身を失敗し、脊柱を傷めてしまった。命に別状はなかったが、下半身が麻痺してしまい、車椅子生活を余儀なくされたのだった。その時、すでに利恵と剛は結婚の約束を交わしていたが、怪我をした自分と結婚しても幸せにはなれない、と剛が身を引く決心をしたにも関わらず、利恵はそれを強く否定し、彼を支え続けることを決意した。

 

「愛してたんやな、先生」

「はい。そのことについては他に選択の余地はありませんでした」

「強い心の持ち主やな……」

「あの時、車椅子から身を乗り出すようにして私の身体を抱きしめて、彼は大きな身体でおいおい声を上げて泣きました。後にも先にも彼があそこまで感情的にになったのは初めてです」

「救われた、と思うたんやろな」

「そうですね。でも、かねがね私、結婚したら子供が欲しい、と口にしていたので、彼はそのことをとても気にしていました」

「そやけどその時、すでにおったんやろ? 遙生が、お腹ん中に」

 

 利恵は静かに首を横に振って小さなため息をついた。

 

「実はあれは嘘なんです」

「嘘?」

「怪我する前も彼は頻繁に私を抱いてくれていましたが、彼が入院して数日後に生理が始まって……」

 ケネスは怪訝な顔をした。

「ほたら、遙生は……」

 しばらくの沈黙の後、利恵は決心したように顔を上げ、ケネスの目を見つめた。