Chocolate Time 外伝 第3集 第7話

そのチョコを食べ終わる頃には


《第1章》「その警察官、秋月 遼」  《第2章》「その秘密の出来事は」     《第3章》「そのチョコを食べ終わる頃には」   

第2章「その秘密の出来事は」 4

 時は遡って三年ほど前の三月。秋月家に一本の電話が掛かってきた。

 仕事から帰って入浴を済ませ、缶ビールを片手にドレッサーに向かっていた海晴(33)が受話器を取った。

「秋月さんのお宅でしょうか?」

 丁寧な口調の野太い声だった。

「はい。そうですけど」

「剛です」

「剛? さん?」

「篠原剛です」

「篠原……さん? あ、もしかしていとこの? 剛兄?」

「はい。そうです。海晴ちゃん?」

「そうです。やだ、懐かしいね。元気だった?」

「うん。何とかね。君も元気そうだね。弟君、結婚したんだって?」

「二年前にね。高校の時の同級生と」

「それは良かった。彼と最後に会ったのは彼が六年生の時だったよな、確か。もう10年以上も前になるか……」

「そうね。その時あたしは高校生だった」

 少し会話が途切れた。

「小さい頃には盆正月にはよく行き来してたんだけどな」

「そうだね。で、どうしたの? 急に電話なんか」

「実は俺たち家族、今K市に住んでるんだよ」

「え? K市って、ここ?」

「そう。ここ」

「いつから?」

「えーと、大学を出た次の年だったから、もう10年になるな」

「ええ? なんで言わなかったの? そんな近くに住んでるんだったら、遊びに行ってたのに」

「ああ、まあ、いろいろと……あってな」剛はばつが悪そうに口ごもった。

「剛兄が結婚した、ってことと、男の子が生まれた、ってことはちらっと聞いたことがあったけど」

 

 剛と利恵、それに遙生の家族は、利恵と剛が大学を卒業した次の年に横浜からK市に転居した。その第一の理由は利恵の実家がこの県内にあり、K市からは電車で一時間余りで行くことができたからだ。これから教師として働くつもりだった利恵にとって、自分の母親が近くにいることはとても心強かった。ただ実家は田舎で学校も統廃合が進み、障害者である剛の就職にも支障があった。その点K市は比較的都会であるにも関わらず自然も多く残り、何より障害者や子供への福祉が充実していると聞いていた。

 一歳になるまで遙生の子育てに専念した利恵は、その年にこの県の教職員採用試験にパスして、公立中学校の教諭として働き始めた。彼女が卒業して一年経っていた。

 

 海晴は少し言いにくそうに声を落とした。

「剛兄、車椅子生活なんでしょ? どこかに就職してるの?」

「聞いてくれ。実は五年前に車椅子とはおさらばしたんだ」

「ほんとに?」海晴は思わず高い声を出した。「そうなんだ、良かったね、剛兄。今は普通に歩けるの?」

「リハビリの成果だな。まだ完全に元通りってわけじゃないけどな。走るのはムリだが歩くのに支障はない」

「そっかー、ほんとに良かったね。で、仕事は?」

「こっちに越して来てすぐ、市の社会福祉協議会の事務所に就職できたんだ。今もそこにいる」

「へえ! すごいね」

「この町に来た時にシンチョコのケニーさんにすっごいお世話になってな」

「ケニーさん? そっかー、あの人の一言があれば絶対大丈夫だよね。でもなんでケニーさんを知ってるの?」

「シンチョコのオープンの時から、度々そっちに遊びに行く度に連れて行ってもらってたじゃないか」

「小学生だったよね、あたしたち」

「俺が小五の時だから海晴ちゃんは三年生だったはずだ」

「それから店に行く度に親切にしてもらってたよね」

「大阪弁でしゃべくる賑やかな人だけど、顔が広くてすごく頼りになる人だよ。今も時々行って話すけど、昔とちっとも変わらない。行動力があってポジティブで」

「で、そのケニーさんに就職を斡旋してもらったわけ?」

「そう。協議会の事務所。障害者支援センターの支援課・事業推進課に最初はいたんだ。車椅子の障害者の俺は言ってみりゃ当事者だしな。障害者の視点で仕事内容を考えろ、って言われたよ。ケニーさんにも」

「もう10年になるわけでしょ? 今もその支援課の仕事?」

「二年前から地域活動部の地域福祉課長をやってる」

「すごいね。いつの間にか立派になってるんだね」

「海晴ちゃんは? 今何してるんだ?」

「あたしは紳士服屋の店員。もう七年になるかな」

「そうか。結婚は?」

「チャンスもその気もないからまだムリね」

 海晴は笑った。

「坊ちゃんがいるんでしょ? いくつ?」

「……ああ、四月から五年生になるよ。楓小学校に通ってる」

「じゃあホントに近くに住んでるんだね」

 

「あのさ、海晴ちゃん」

 にわかに剛の声のトーンが落ちたのに戸惑い、海晴は受話器を握り直した。

「今日俺が電話した用件は……」

「うん」

「そう。ちょっと骨折りの依頼なんだけど……」

「電話でも大丈夫な内容?」

「今日のところは、とりあえず」

「わかった。聞くよ」

「ごめんな、忙しいんだろ?」

「大丈夫よ。言って」

「うん。実は、俺のカミさんの利恵のことなんだが」

「奥さん?」

「簡潔に話すと、彼女とは大学を卒業してすぐ結婚した。そしてその年の夏に長男の遙生が生まれたんだ」

「うん」

「利恵は今、中学校の教師をしてる。でさ、いきなり生々しいことを言うけど、この子が本当は誰の子なのか知りたくて……」

「ええっ?! なにそれ、ど、どういうこと?」

 海晴は思わず大声を出した。

「ごめん、いきなりだったね」

「と、とにかく続けて……」海晴はやっとの思いで息を整え、促した。

「俺は利恵と結婚する前年に、柔道の練習中に下半身不随になってしまった。ということは、生殖能力も失ったということ。あ、ほんとに生々しい話ですまん」

「大丈夫よ」

「で、あの子が生まれた日から逆算しても、俺と利恵との繋がりが元になったとは到底思えないんだ」

「そ、そうなんだ……」

「計算すると、息子の遙生が彼女のお腹に宿るきっかけになった出来事が起きたと思われる時期が、丁度彼女が大学の教育実習生としてこっちの高校に通っていた期間と一致するんだよ」

「はあ……」

「利恵が言っていたが、その時、弟の遼くんがその高校に在学していたらしいね」

「うん。確かに通ってたね……」

「それで、遼くんが何か事情を知ってはいないかと思ったわけなんだ」

「え? なんで弟が?」

「先週のことだ。南中学校の先生がうちの事務所にやってきてな、」

 

 

 その逞しい体躯にスーツを着こなし、臙脂色のネクタイをした男は、事務所のドアを開けた剛の前で姿勢良く立ち、少々緊張したような表情でゆっくりとお辞儀をした。

「お忙しいところ、申し訳ありません。剣持です」

 剛はその教師を中に促しながら言った。

「お待ちしてました。どうぞ中へ」

 失礼します、とまたお辞儀をして、その地元中学の体育教師、剣持優(34)は窓際に置かれたソファに座った。

「お忙しい中、わざわざおいで頂いて申し訳ありません」

 剛が言うと、剣持は軽く首を振った。

「いえ、こちらこそ、貴重な時間を頂き、恐縮です」

 剛も剣持に相対して座った。

 剣持は両手の指を組んで、少し身を乗り出し、低い声で言った。

「毎年お願いしています生徒の職場体験実習の受け入れについて、その可否をお伺いしたいんですが……」

「はい、去年は五月でしたね? 真面目で礼儀正しい生徒さんだったのでよく覚えています。三人とも立派に三日間働いてくれました。私たちもとても助かりましたし、将来有望だな、と職員同士で話しておりました」

 そうですか、と剣持は鼻の頭を掻いた。

「来年度もその時期に?」

「はい、来月、新学期が始まってすぐに二年生の総合的な学習の時間を使って希望調査と事業所の割り振りをする予定です」

「こんな地味な職場でも希望者がいるんでしょうか?」

「意外と……と言っては失礼ですね。実は福祉に興味を持つ生徒は、毎年一定数いるんです。女子だけじゃなく男子の中にも」

「そうなんですね」

「このK市の積極的な福祉政策のお陰でしょう。子供たちの目にも見えるような福祉事業を展開しているというのが大きな要因だと思います」

「なるほど」

「もちろんここの協議会の職員の皆さんが毎日一生懸命、誠実に働いていらっしゃる成果であることは間違いありません」

 剛は落ち着かないように腰をもぞもぞさせた。

「そんなに言って頂くと、何だか居心地悪くなります」剛は頭を掻きながら続けた。「うちは全然問題ありません。五月のどの三日間に実施されるか決まりましたら、早めに知らせて下さい」

 剣持はありがとうございます、と言って深々と頭を下げた。

 

 剛は今、目の前に座っている教師の名前には聞き覚えがあった。妻の利恵が何度か話して聞かせてくれたことがあったのだ。

「ところで、剣持先生って、」

 目の前の湯飲みを口に持っていきかけた剣持の手が止まった。「はい?」

「うちの妻、利恵とはこっちの高校の教育実習で一緒だったとお聞きしましたが」

「利恵……さん? もしかして岡林利恵さんですか?」

「そうです」

「はい、一緒でしたよ。とても真面目でやる気があって、生徒からも人気がありました。そうですか、利恵さんが奥様なんですね。で、僕のことを話されたんですか? 彼女」

 剛は頷いた。「はい、剣道に長けた男らしい人だった、って聞いてます。今もそんな感じですね、見たところ」

 剣持は照れ笑いをして額の汗を拭った。

「珍しいお名前なので記憶してました」

「そうですか」

 剛は数回瞬きをして、言葉を選びながら言った。

「そ、その時の様子を、あの、聞かせて頂きたいのですが」

「様子? 実習の時の?」

「はい。つまり……その時利恵が実習の時、学校で、何か気になるような行動をとっていなかったか、ということなんですが……」

 剛は目の前のその逞しい体育教師をじっと観察した。

「(もしかしたら、この男が利恵と……)」

 少しの間、怪訝な顔をしていた剣持は、努めて平静を装い、言葉を選びながら答えた。

「特に……変わったことはありませんでしたが……」

「特定の人物とずっと行動を共にしていた、とか……」

「彼女が持ったクラスの担任は初老の社会科教師でしたけど、どちらかと言うと職員室に籠もりっきりで、あまり彼女の相手をしていなかったような気がします。もう一人の理科の実習生は、化学の教員にずっといいように使われてましたけどね」

「そ、そうですか」

「彼女が担当していたクラスの学級委員長をしていた男子とはよく話をしていた記憶があります。彼は毎日の様に実習生の控え室にやって来ては利恵さんと話をしていましたから」

「学級委員長?」

「僕も当時顔を出していた剣道部の生徒で、秋月という瞳の澄んだちょっと痩せた生徒です。実は彼、今は警察官なんですが、うちの学校の剣道部に週二回、ゲストコーチでやってきてるんです」

「もしかして秋月遼ですか?」

「おや、ご存じなんですか?」

「はい。僕のいとこです。父の妹の子」

「へえ! そうだったんですね。こちらも奇遇ですね」

 剣持は湯飲みから茶を一口すすった。

「剣持先生は、」剛は少し身を乗り出して訊いた。「実習期間中はどちらにお住まいに?」

 剣持は肩をすくめた。

「僕の実家は高校の裏にありまして、当時は両親と兄と弟、それに祖母の家族と一緒に過ごしてました」

「土日は何をして過ごされてたんですか?」

「高校の剣道部に連日駆り出されてましたね」剣持は笑った。「当時の顧問にここぞとばかりに使われてました」

「そうですか……」

 最も怪しいこの剣持という男と利恵との接点は、本人の話だけでは見えてこない、と剛は思った。

「すみません、妙なことをお訊きしてしまって」

「いえ」

 剣持は、湯飲みを茶托に置き直すと、上着の襟を整えた。

「では、僕はこれで。いつも学校の活動にご協力ありがとうございます。新学期になったら校長名で正式な依頼の文書をお持ちしますので、どうぞよろしくお願いいたします」

 姿勢良く立ち、そう言い終わると、剣持は丁寧に頭を下げ、付け加えた。

「奥様の利恵さんにもよろしくお伝え下さい」

 

 

 受話器の向こうで剛が言った。

「というわけで、剣持先生から遼くんの名前が出てきたんだ」

「なるほどね。弟の遼は、その時利恵さんと親しくなってたのね」

「人を勝手に疑うもんじゃないとは思うけど……その剣持という先生が一番怪しいと俺は思ってるんだ」

「同じ実習生だったから?」

「そう。授業以外はずっと同じ部屋にいたわけだろ? もう一人の実習生は化学の教師に使われていて、控え室にはほとんどいなかったって言うし」

「まあ、そう考えれば剛兄が怪しいと思うのも無理はないけど……」

「どんな小さなことでも構わない、遼くんがその時学校で利恵の行動について気づいたことがあれば教えてもらいたい。特にその剣持という実習生との関係について」

「もうずいぶん時間は経っているけど……剛兄が直に弟に訊いてみる?」

「いや、遼くんとは長いこと会ってないし……。まずは海晴ちゃんから軽く、さりげなく訊いてもらえれば。何か気がかりな情報が得られたら俺が直接訊くかも知れないが……」

 

 ――いくら親しくしてもらっていたとしても……。海晴は考えた。高校に通っていた一生徒が、教育実習生の様子をそれほど細かく知っているわけはあるまい。仮に剛の今の奥さんがその剣持という実習生と過ちを犯したなどということがあったとしても、当時生徒だった弟にわかるはずはないだろう。

「難しい……と思うよ」海晴は残念そうに言った。

「どんな小さなことでもいいんだ」

 電話の向こうで剛はすがるような口調で言った。

「もちろんその相手が誰かを知ったところで、俺は妻を手放そうとは思わない。今でも大切な人だから。それにこんな身体になってしまった俺と結婚してくれた女性を今さら裏切り者と罵ることなんてできるわけない」

 海晴の胸は締め付けられるように痛んだ。

「ただ、息子の出自は知っておきたい。それを知ってどうするわけでもないし、今さら妻や子供に対する態度が変わるわけでもないけど……」

 剛の気持ちは痛いほどわかる。息苦しくなってきた自分に狼狽しながら、海晴は絞り出すような声で言った。

「わかった……」

 弟の遼に聞いたところで、剛にとって欲しい情報は何も得られないに違いない。それでも電話の向こうの男性が抱いている苦しみを僅かでも和らげてやりたいと海晴は思った。

「一応……訊いてみるよ。遼に」

「ありがとう。感謝するよ」

 剛は泣きそうな声になっていた。

「それからどうか、このことは海晴ちゃんと俺との内密の話として……」

「わかってます。安心して」

「本当にごめん。いきなり電話してこんなややこしいお願いをしてしまって」

「ううん、大丈夫。じゃあ、何か分かったらこちらからこっそり電話する」

「ありがとう。ありがとう」

「奥様を大切になさって下さいね」

「もちろん。俺は今でも息子も利恵も愛している」

 ぷつっ、電話が切られた。

「(利恵……『リエ』?)」

 海晴はその時、出し抜けに昔の出来事を思い出した。

「(リエという名前、確か遼が……)」

 

 ――自分が22の時、そう、勢いで弟、遼と肉体関係を結んでしまったあの夜……。

 

 

 弟の遼を半ば誘惑して初めて繋がり合った晩だけでなく、その次の日と次の日も海晴と遼はその身体を重ね合い熱い時間を共有してしまった。当時の遼の様子が、それまで姉である自分も見たことのないような、一種投げやりな態度で、それでいて哀しいような、苦しいような、すがるような、とにかく何か放っておけないような表情をしていたからだ。

 その三日目の夜のことだった。

 思いの外激しい求め合いが終わり、弟の遼はベッドの上で枕を抱きしめて眠っていた。使用済みのコンドームを包んだティッシュをゴミ箱に放り込んで、海晴はベッドに戻った。

「こいつ、可愛い顔して眠っちゃって。いい気なもんね」

 海晴はショーツを穿き直し、弟の寝顔を見下ろしてくすっと笑い、その横に身体を横たえた。

「小学校まではこうして一緒に寝てたな」

 はあ、と大きなため息をついた時、遼がかすかな声で寝言を言った。

「リエ……先生」

「(え?)」

 海晴はしばらく息を潜めて眠っている遼の様子を見ていた。彼が寝返りを打ちながら、さっきよりも大きなはっきりした声でまた寝言を言った。

「リエ先生」

 そして抱えていた枕をぎゅっと抱きしめ、顔を埋めた。

 遼はそのまま、閉じた目に涙を滲ませ、ひどく切ない顔をして寝息を立てていた。

 

 

 海晴は剛との電話の後、その時の弟遼の様子を思い出した。当時もなぜ弟が「リエ先生」という寝言を言いながら枕を抱きしめていたのか不審に思っていたが、結局本人に聞き出すことができずに時と共に忘れかけていた。

「(もしかして……利恵さんを妊娠させたエッチの相手って……)」

 思い返せばあの時の遼の自分との行為には他にもいろいろと不自然な点があった。

 まず、初日、初めての割にはすんなりと自分と繋がり合えたこと。秘部の場所も初めから分かっていたように挿入してきた。そしてあの腰の動き。何と言うか、童貞男子のたどたどしさであるとかぎこちなさが感じられなかった。すでに何度か経験したことのあるような余裕さえ感じる動きだった。そのくせ避妊具のコンドームを付けることは初めてという感じだったではないか。ということは、つまり利恵が教育実習生として高校に通っている三週間の間に、弟の遼は何度も彼女を抱いたばかりか、その時一切避妊をしなかったということではないのか。そう考えると全ての辻褄が合う。

 海晴は軽いめまいを覚えた。

「(まさか、遼がその相手?)」

 あくまでも自分だけの、しかもとてつもない想像だったが、もしそれが事実だとしても、今、姉として遼本人を問い詰める自信はなかった。

「(……どうしたらいい?)」

 海晴はその晩一睡もできなかった。

 それでも、いとこの剛と約束した手前、いつまでもそのままにしておくことはできない。海晴はその三日後、意を決して、夜、電話をして仕事の終わった遼を家に呼び出し、話を聞くことにした。

 

 

「なんだよ、わざわざ呼び出して」

「まず誓いなさい。訊かれたことに正直に答えること」

 遼はあからさまに怪訝な顔をした後、いつになく真剣な表情の姉海晴に戸惑い、おどおどした様子で言った。

「な、なんだよいきなり……」

「あんたが虚偽の発言をすると、いろんな人を不幸にするんだからね」

「大げさな……」

 姉の険しい顔つきに遼はしたたかにたじろぎ、思わず床に膝を揃えて座った。

「あんた、高一の時のあたしとの行為は初めてじゃなかったでしょ」

 遼は肩をびくんと大きく震わせた。

 海晴は声のトーンを落とした。「あたしもあんたを尋問するつもりはないの。正直に言うだけでいい。頷いたり首を振ったりするだけでもいい」

 遼はうつむいたまま上目遣いで姉を見た。

「初めてのお相手はその時教育実習生として高校に来ていた岡林利恵という大学生だったんじゃないの?」

 遼は目を落としたまま、動かなかった。

「答えは二つのうちのどちらか。yesかno。どうなの? 遼」

「姉貴はどうしてそれを知ってるんだ?」遼は顔を上げて、震える声で言った。

「yesなのね?」

 遼はまたうつむいて小さく頷いた。

「その人が高校に通ってきていた三週間で何度となく繋がり合った。間違いない?」

 遼は肩をすぼめ、さらに小さく頷いた。

 

 海晴はその時弟が避妊具を使わなかったことも確認したかったが、それによって、結果的に利恵を妊娠させてしまったかも知れないことを本人に悟られるのは、さすがにまずいと思ったので、慎重に次の言葉を探した。

 

「好きだったの? 先生のこと」

「好き、って言うか……」

「まあ、年頃の男子だからそんなこと思わなくてもヤれるか。場所は? まさかラブホ?」

「ちっ、違うよ。せ、先生のアパート……」

「そっか。で、頻度は?」

「頻度?」

 遼は困った顔をした。

「結局何回ぐらい抱かせてもらったの?」

「えっと……二週目は二日に一回ぐらいで、最後の週はほとんど毎日」

「おお、そんなに……女体に慣れるわけだ。あたしとの行為の時も余裕だったしね」

「ご、ごめん。ほんとにごめん」

 海晴は呆れた様に言った。「意味もなく謝らないの。あんたの悪い癖。そもそも謝る相手がどこにいるってのよ」

「姉貴、どうしてこんなこと訊くんだ? それに、何かいろいろ知ってるみたいだけど……」

 海晴はうそぶいた。「利恵先生本人に相談されたの」

「ええっ?!」

「心配しないで、彼女、あんたを弄んだことを後悔してたんだって。だから彼女の方から謝りたいって思ったらしいわ」

「弄んだって。違う。俺がムリ言って抱かせてもらったんだし。先生が謝る必要なんかないよ」

「あたしもそう言っといた」

 海晴はにっこり笑って遼の肩を軽く叩いた。

「でも、なんで利恵先生が姉貴に電話を? どこで知り合ったんだ?」

 海晴は思った。そうか、自分さえつい先日いとこの剛がその利恵と結婚したことを剛本人から聞いたばかりで、10年以上交流がなかった遼がそのことを知っているはずもない。海晴は考えを巡らせた。

「秋月という家を探し当てるのに、まず街の生き字引シンチョコのケニーさんに尋ねてみた。うちはK市に一軒しかないから、すぐに突き止められたってわけ」

「なるほど……」

 少しの間遼は黙ったまま何かを考えているようだった。海晴はその目の前の弟に、次にどういう言葉を掛けたらいいのか悩んでいた。

 不意に遼が顔を上げた。

「利恵先生の電話番号、控えてる?」

「え? どうして?」

「お、俺、先生に確かめなきゃいけないことが……」

「うちの家電、着信履歴が残らないからねえ……」

「そうか。そうだったね……」

「で? 確かめたいことって?」

「あの……」遼は泣きそうな顔で一度言葉を切り、決心したように顔を上げた。「俺、ずっとゴム付けなかったんだ。あの時」

「(きた! 間違いなさそうね)」

 思いもよらず一番聞きたかった情報が、遼本人の口から得られて、海晴は心の中でガッツポーズをした。

「それはまずいわね……」

「先生、妊娠なんかしなかったのかな……」

 遼は少し涙ぐんでいた。

 

 高一当時はそこまで気は回らなかったに違いない。あこがれの女性と繋がり、火照った身体の性的な欲求を満たすので頭は一杯だっただろうから。だが、今は弟も27歳。避妊に対しての知識もとっくについている。不安になるのは当然だろう。海晴は嘘を重ねた。

 

「それは大丈夫。実習が終わってすぐ生理があったんだって。だから安心して欲しい、って仰ってたわよ、それも先生があんたに伝えたかったことの一つだったって」

 遼は安心して大きなため息をついた。

「良かった……」

 海晴は弟の肩を抱いて耳元で囁いた。

「ありがとう。ごめんね、苦しい思いをさせて」

「姉貴……」

「あたしもね、ずっと引っ掛かってたのよ。あんたの初めての相手は実はあたしじゃないんじゃないかって。あの夜のあんたの行為、とても童貞とは思えなかったからね。で、都合良く最近利恵先生から電話があったから確かめたの。あんたにも」

「そう……か」

「あたしもすっきりした。ありがとうね。今のあんたの気持ち、いつか利恵先生に伝えられるといいね」

「先生は今?」

「現役の中学校教師をやってるって」

「中学? 高校じゃないのか」

「そう。高校生を見たら、あんたとのことを思い出して辛いから」

「ええっ?!」

「嘘よ」

「驚かすなよ」

 遼はまた大きなため息をつき、ようやく寂しげに笑った。

 海晴はその時、利恵がいとこの剛と結婚してこの町に住んでいることについては、敢えて遼に話さなかった。

 

――そしてそれから三年が経った。